「おじいさん、今日も小麦畑に行くのかい?」
「ああ。(名前)か? うむ、今日は天気がいいからな」
「私も連れていっておくれ」
「分かった」
そう言って俺は、杖をつきながらのろのろと歩いてくる妻の手を引いて、家の前に広がる金色の小麦畑の中へ進んでいった。デルカダールで英雄と持て囃された俺だったが、歳を重ねるごとに強まっていく老いには勝てず、愛する女と故郷のバンデルフォンで小麦を育てながら慎ましい生活を送っていた。
「おじいさん、こうして二人で散歩をするのも久しぶりだね」
「そうか?」
「足腰が弱ってから、何もしてやれてないのが悔しいね」
「無理などするものではないぞ。畑仕事は俺や、子供達に任せるといい」
「そうかい。それは、ありがたいね」
そうして(名前)は、皺だらけの顔をくしゃっと歪ませて、子供のように無邪気に笑う。皺があろうとなかろうと、昔から変わらぬこの笑顔が、俺はとても好きだった。胸の内に安堵感が溢れ、努力が報われたような気さえしてくる。誰よりも優しく、温かい彼女が笑うたび、俺の心に愛情と信頼が届く。二人の間に強い絆が根付いているのだと実感するほどに、彼女への愛が不変のものへとなっていった。
「グレイグ」
「突然、名前で呼ぶとは一体どうしたのだ?」
「……私は、幸せだったよ」
その言葉に目を丸くしていると、そよ風が吹いてきて、周囲の小麦の穂を揺らした。金色の景色の中に立つ老婆の笑顔は、さらに輝きを増している。俺は顔が熱くなっていくのを、彼女の手を強く握り直すことで誤魔化した。
「勇者さまとの旅で素敵な旦那と出会い、惹かれ合うように恋をして、ようやく結ばれたと思ったら子供が出来て、そろそろ孫も生まれるときたもんだ」
「(名前)……」
「これ以上の幸せは、ないねぇ」
(名前)は俺に視線を向けずに、遠くの空を仰ぎ見た。雲ひとつない快晴の青空に、懐かしくも忘れられない思い出を浮かべて眺めているのだろう。満足そうな色をした瞳で、彼女は静かに微笑んでいる。それをじっと見つめていると、不意に(名前)に問いかけられた。
「グレイグは、幸せだったかい?」
「こっ、言葉で言わずとも、長年連れ添ったお前なら分かるだろう?」
「あえて言って欲しいのが、女心だよ」
みるみるうちに彼女の目元には、淡い切なさが宿った。いくら年齢を重ねても、本質は何も変わらないのだと言われているようだった。そして昔を思い出し、急に気恥ずかしくなった俺は、適当な理由をつけて家に戻りたくなった。
「……かっ、風が冷たくなってきたから、戻ろう」
「うふふ、意地悪なじいさんめ」
「何とでも言うがいいっ!」
杖をつきながら、ゆっくりと一歩ずつ歩む(名前)を横目で見ていると、年老いても素直になりきれない自分に軽い苛立ちを覚えた。彼女の望む言葉を、肝心な時に伝えることが出来ないでいる。昔からそれは変わらなかった。その分、彼女を失望させてきたのではないかと思うと、知らぬ間に言葉が口を衝いて出ていった。
「そうだな、(名前)」
「なんだい?」
「どんな時であっても、お前は俺に穏やかな幸せを与えてくれた、大事な妻だ」
彼女に視線を注ぎながら伝えてしまえば、言葉に詰まりそうだった。だから俺は、彼女の顔を見ることなく、さらりと告げた。小麦畑を抜けて、家まであと少しといったところで、鼻を啜る音が耳に入った。泣かせてしまったか、と慌てて(名前)の顔を覗き込むと、潤んだ目元を擦りながら、喜びを頬に浮かべていた。その姿に、少しばかり安堵した。
「……最近は、涙腺が弱くて敵わないね」
「俺はお前を泣かせてしまうほど、意地悪なじいさんなようだな」
「ふふっ。グレイグ、ありがとう」
彼女の瞳から流れ出た綺麗な涙を、指と掌を使っていつものように拭った。くすぐったいと言われるも、俺にはこうするしか出来ないのだと伝えれば、また俺の好きな笑顔が表れた。
Zeal
(熱意)