目の前から意識を離せるだけの余裕がなければ大きなものを見ることはできない。つまりだ、身近な問題を解決して初めてもっと大きな問題に目を向けることができるのだ。だから世界が魔王バラモスの脅威に晒されているとしても、私たちはそれに怯える余裕などない。世界を牛耳りつつある魔王よりも、すでにこの国を食らい尽くしている暴君の方がよほど現実的な恐怖対象だった。
 昔は良かった、なんて言えないほどこの国は疲弊している。誰が言うものか、言ったが最後待ち受けているものはわかりきっているのだ。今日も葬式が行われている墓地には、それを教えてくれた人々が山ほど眠っている。

「だから、この国のことは忘れて早く出ていった方がいいですよ」

 そう告げた途端に部屋の中は静まり返り、なんとも言えない空気が漂う。無理もない。客室まで案内し一通りの説明を終えた後、有無を言わさずこの国の現状を聞かせた上で進言したのだから。
 せっかく訪れた旅人たちに、宿屋の従業員が何を言うのか。そう思うのが当然だろう、現に彼らは怪訝な顔をしている。だけどそれはある種のプライドだった。私たちにとっては全てだろうと、世界からすればたった一つ国が崩壊するくらい何になろう。疲弊していようと世界を恨んでいるわけではない。無関係の旅人を自国の事情に巻き込むつもりはないのだ。
 難しい顔を向ける旅人たちの視線は気まずいが、これだけ言えば何か起こって巻き込まれる前に発ってくれるだろう。そう思って「失礼します」と会釈をして部屋を出ようとしたとき、淀んでいた空気が動いた。

「それを聞いておいて、この国を放っておくわけにはいかないな」

 私の立つ場所から一番近くにいた、旅人一行の中でも最も年若そうな青年が、静かにはっきりと言った。男性にしては大きな目がじっとこちらを見ている。幼さが残る顔だちなのに、真剣な表情はどきりとするほど凛々しい。

「だって、俺は勇者だ。そうあろうと決めたんだ」

 迷いなく言い切る姿は確かに頼もしく、彼の決意が本物なのだろうと判断するには十分だった。だけどそれは勇ましき者、英雄や偉大な行いを成し遂げた者、あるいはそうあることを望まれた者の呼び名だ。
 並みの人間よりも少しだけ重いものを背負えるから、少しだけ多くを拾えるから、勇者の進む道は過酷になってしまうのだろう。彼らは語り草にはなれど、穏やかなその後を過ごしたという話は聞いたことがない。かつてこの国にいたという勇者もまた然り。
 だというのに私より若そうな青年がその道を選ぶというのだから、世界の危機は私が思うよりずっと身近にあるようだ。だとしたら、なおさら巻き込むわけにはいかない。この国の悪政で苦しむのは私たち国民だけだ。世界が勇者を望み、彼がそれに応えようとするのなら、優先順位をつけるまでもなくとるべきものは決まっている。

「勇者だって言うなら、一国にこだわってないでより多くを救うべきでしょう」
「そんな馬鹿な話があるか。目の前にあるものも拾えないで何が勇者だ」

 しかし青年は真摯な瞳で否定した。

「苦しんでいる人がいると知っておきながら放っておくなんて、それでバラモスを倒したとしても俺は納得できない。この国だって助けたい。出ていけなんて言わずに話を聞かせてくれ」

 甘ったるい理想を語る口を塞いでやりたくなるのに、踏み越えてこないでと叫びたくなるのに、遮ることができない。駄目だと言わなければと口を開いても出てくるのは言葉になりそこねた空気ばかりで、もどかしさと苛立ちと焦りが頭をいっぱいにする。そうして思考が鈍ってようやく音になった声には、もうプライドも何もない。

「……本当に、信じていいんですね? 助けてくれるんだって。私たちは、この国は救われるんだって」

 ぽつりぽつりとこぼれるのは手のひらを返す言葉だけ。巻き込みたくないだなんて意地を張っておいて、光が見えた途端に都合よく手を伸ばしてしまう。否、できることなら自分たちで解決したかった。せめて自分たちだけで終わらせたかった。だけど心の奥底では、どうして私たちだけ、と子供のように嘆いていた。本当はずっと、伸ばした手を誰かに握ってほしかった。

「たすけて」

 声と一緒に震えそうな手をぎゅっと握りしめる。そうでもしなければ一人で立つこともままならないような気がした。エプロンの布地を握る手を掬った両手は、手袋越しにも温かく頼もしい。私と同じただの人間の手であるはずなのに、疑わせることなく大丈夫だと信じさせてくれる。それでいいとでも言うように包んでくれる。
 だから私は傲慢に、その手にすがろう。都合よく救いを求めて、無責任な信頼をあなたに背負わせよう。きっと応えてくれるのでしょう。あなたが救いたい世界のほとんどは私と同じ、無力で身勝手な民衆が占めるのだから。勇者であることを選ぶなら、それでも全てを飲み込んで、上等だと笑う余裕すらちらつかせて、進んでみせてよ。
Trust
(信頼する)

TOP