眼前に広がる夜明け前の暗い海はどこまでも深く底知れなくて、波打ち際から一歩踏み出せば沈んでしまうのではないか、などと馬鹿な錯覚を覚えてしまう。どうして、と呟いたその声がいやに弱々しく聞こえたのだって、きっとそのせいだ。

「どうして(名前)は僕らと冒険しようとは思わなかったの」

 夜中といえど、すぐ隣にいる相手の表情くらいは月明かりではっきりと見える。しかし見上げた顔には表情という表情は浮かんでおらず、何を考えているのかこちら次第でどうとでも取れそうだ。ゆえに何を思っての問いかけなのかわからず、私はゆっくりと当時のことを思い出して、素直に口を開いた。

「冒険するよりも、(勇者)たちから話を聞く方が楽しかったから。私は自分が冒険するより、(勇者)たちをここで待ってる方が好きだったんだよ」

 まだ見上げなくても(勇者)と目があったころ、気づけばもう数年も経ってしまったあのころ、私は私なりに彼らと共に冒険を楽しんでいた。実際に赴かずとも話を聞くだけで目の前に広がる光景、エスタード島ではないどこか遠く、彼らが語る広い世界を想像し思いをはせることが何より面白かった。(勇者)ほどの好奇心もマリベルほどの行動力も、それからキーファほどの情熱もなかった私には、土産話を楽しみにフィッシュベルで彼らの帰りを待つ方が性に合っていたのだ。
 (勇者)は納得したのかしていないのか、少しだけ眉を寄せて「そう」と言ったあと黙りこんだ。話が終わったわけではないのだろうことは何となくわかったから、さざ波に耳を澄ませて続きを待つ。海水が打ち寄せる音、それに合わせて泳ぐ砂の音、引いていく水の音。生まれてこのかた聞かない日などなかったというのに飽きることなく、気持ちを落ち着かせる心地よい音だ。(勇者)にとってもそうなのだろう。耳に届いた続きは、穏やかながらしっかりとした声が紡いでいた。

「……待ってるだけだとさ、不安にならなかった? キーファがいなくなったとき、とか。マリベルや……僕も、いなくなるかもって思わなかった?」
「全然」
「一度も?」
「心配したことなんかなかったよ。キーファのときはね、悲しかったけど、どこかで納得しちゃったの。キーファらしいなって。だけど(勇者)とマリベルがいなくなるかもなんて、考えたこともなかった」

 あっけらかんと答えた私にぽかんと口を開けて瞬きする(勇者)を見て、そういう可能性もなくはなかったのか、と一人で納得する。(勇者)の言葉で今初めて気がついたくらい、私の頭には微塵もなかった考えだ。彼らの冒険ごっこが本物の冒険になったときも、エスタード島が闇に包まれたときも、魔王を倒しに行くときだって、していた心配といえば、あまり怪我をせずに帰ってきてほしい、くらいだった。キーファのことがあったというのに、(勇者)たちはここに帰ってくるのだと何の疑いも抱かず信じていた。理屈などなく、自覚すらもなく、ただそういうものだと思っていたのだ。海に出た漁師たちが必ず村へ帰ってくるように、(勇者)たちだって帰ってこないわけがないと。

「今だって、世界中どこにだっていけるのに(勇者)はここにいる。魔王だって倒したくせに、ボルカノさんみたいな漁師になるんだって下っぱから漁師してるでしょ」
「それはそうだけど、それは今の話だろ。あのころ不安にならなかった理由じゃない」

 納得がいかない様子の(勇者)に、少し困って首を捻る。そもそも明確な理由などなかったのだから、説明のしようがない。根拠も何もなく私が勝手に(勇者)たちは帰ってくると思っていた、それだけなのだから。だけど強いて言うならば、と思い付いたことをぽつりと口にする。

「……あのさ、(勇者)は冒険が一つ終わるたびに必ず私に会いに来て、どんな冒険をしたのか話してくれたよね」
「え、うん……だって、(名前)が喜ぶし。楽しかったんだよね?」

 脈絡のなさに戸惑う(勇者)に頷いて、「多分、だからだと思う」と続けた。困惑を濃くした(勇者)の顔はわかりやすく意味がわからないと主張していたから、少しだけ笑ってしまう。

「何度冒険に出掛けても、終わるたびに必ず顔を見せてくれたから。必ず何があったのか教えてくれたから。(勇者)が帰ってくるのはフィッシュベルだって、黙っていなくなったりしないって、考えるまでもなく当たり前に知ってたんだよ」

 遮られないのをいいことに最後まで言いきると、今度は私がそれきり黙りこんだ。これ以上どう言えばいいかわからなかったからだ。
 さざ波は休まず打ち寄せては引いていく。話をしている間は邪魔することなく、沈黙がおとずれると隙間を埋めるように。優しく寄り添うその音に紛れこませるように「ああ、そうか」と、ようやく納得がいったらしい(勇者)が呟いた。

「きっと僕も知ってたんだ、最後には帰ってきてここで生きていくんだって。だから一つずつ(名前)に話したんだ。いつか冒険が終わったとき、一緒にあのころを思い出せるように」

 笑う顔は少し切なげで、だけど清々しい。(勇者)も無意識のうちにわかっていたのだ。冒険が楽しくたって自分が生きる場所はフィッシュベルなのだと、当たり前に受け入れて望んでいた。
 二人ならんで見る夜明け前の暗い海は、どこまでも深く底知れない。だけど遥かな水平線だって打ち寄せる波と同じように優しく包み込んでくれることを、この村で生きる私たちは知っている。

Know
(知っている)

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