泣いていたのかもしれない。
跡部の表情を思い出しながら千石はそんな事を思った。
怒っていたが、泣いていた。
跡部は傷ついていた。
「俺が、傷つけた?」
壁に問い掛けたって返事が返ってくるわけもなく、体育座りのまま少し黄ばんだ壁を見つめていた。
答えが書いてあるわけでもないのに、他にやることすら思い付かないから。
脳内を占拠するのは先程の跡部の顔ばかりだ。
滅多にあんな顔しないからこそ。それどころか千石は跡部のあんな表情を初めて見たのだから破壊力は抜群で、自身の中にどう整理していいのかもわからなかった。
原因が自分だとしても理由を理解できず、気持ちばかりが消化不良をおこしている。
気持ち悪い、苦しい、意味がわからない。
そんなぐるぐると渦巻く思いに頭痛がして、千石は頭を抱えて暗闇の中目をつぶった。
思い出すのは先程の出来事。
跡部の表情ばかりだ。
幸福論
いつも跡部が繰り返し繰り返し千石に言う言葉がある。それは曲がりなりにも恋人である人間が言うことなのだろうかと千石はいつも疑問に思っていた。
それでも跡部に意を唱えたことはない。
なぜなら千石の中で跡部は特別であり、絶対であったから。だが別にそれは千石が心酔していたとかではない。単純に跡部を何より大切に思い、尊重していたというだけなのだ。
誰よりも跡部の正しさを知り、それ故に感じる恐ろしさや劣等感も理解していた。
だからこそ側に居ることを選べたのだ。
例えなんど跡部が別れるかと言っても、千石は頷きはしなかった。あまのじゃくである跡部が自分を試しているだけだと言い聞かせ、跡部が言ったたった一度だけの好きを信じていた。
それでも跡部が何度も繰り返し言う別れるかの言葉を理解は出来ていなかったから、だから千石はその度に少しずつ擦り減った。どんなに言い聞かせても、一回の好きと何度も繰り返される別れの言葉はいつしか釣り合いがとれなくなり、ついには千石も頷く事が出来なくなっていたのだ。
「別れるか」
きっとそれは跡部にとって呼吸をするのと大差ない言葉なのだろう。
そう何度も心で唱えたのに胸がズキリと音を立てたのが千石には嫌と言うほどハッキリ聞こえた。
もうダメなのだと実感する。
跡部を理解する前に自分が壊れてしまうことを悟ってしまった。
ああ、俺はこの人を本当に愛してあげることはできないんだ
「千石?」
いつもなら一もニもなく返事がくるはずの相手からいつも通りの答えが返って来ないのを不信に思ったのだろう、跡部は名前を呼びながら千石を振り返った。
その顔が自分を見る前に顔を引き締めなくては、と千石は情けなくひしゃげた表情を整える。
目をしっかりと開いて、
唇を強く結び、
掌を握る。
泣かないだけで精一杯だった。
「別れ、よっか」
跡部が自分を視界にいれたと判断した瞬間に笑顔を作り、千石はゆっくりと別れを告げる。
ずっと、跡部が繰り返していた言葉。
ただ口に出すだけでこんなに辛いのかと実感する。
痛くて痛くて
こんなにも好きだったのだと
最後まで痛感させられた
「お前はッ……それがお前の答えか」
それはとても不思議な響きを持って千石の耳へと響く。
ずっと別れを言い聞かせていたのに、なぜ今更自分に聞くのかよくわからなかった。いや、どうでもよくなっていたのかも知れない。
千石はとっくに疲れていたのだ。
そして自身で別れを口にして初めて知った。跡部にとってあの言葉がどれほど重みを持たないのか。
だから、もうどうでもよかった。
それからの事を千石はあまり鮮明に覚えていない。ただただ泣き出すのを堪えることに必死で、ちゃんと跡部の疑問に答えてから家に帰って来たのかも、逃げ出して来たのかもわからない。
一つだけ確かなことは、跡部と別れたこと。
そして、傷つけたということ。
でも今だに何故あんな顔を跡部がしたのかはわかっていない。きっとこれから先も自分にはわからないだろうと千石は少しだけ諦めていた。
小さくため息を吐けば喉がしまる感覚がして、また切なくなる。
その苦しさを振り払うように勢いよく立ち上がり、窓際へと歩いた。部屋に飾られているたくさんを写真立てには様々な人達が笑っており、一緒に写っている千石自身も楽しそうにしている。
そんなたくさんの写真の中で一番気に入っていた写真へそっと触れた。
窓際に飾った跡部との写真。
たった一枚だけの二人で撮った写真。
そこにいる二人はどちらも幸せそうに微笑んでいた。
(好き)
指先でゆっくりと微笑む二人をなぞる。
本当に本当に愛おしいものに触れるように。
(いまでも苦しいくらい好きなんだ)
そうしていると、いつの間にか自然と千石の頬を涙が伝い落ちていた。
まるで雨のように写真へと降り、じわりじわりと濡らしていく。
それが悲しくて、止めたいのにもう涙は止まらなかった。
こんなにも好きなのになんでうまくいかないのだろう
一度だけの好きが真実だと分かっていたのに信じ続けられなかったのは何故だろう
世界はまるで捻くれることを知らないというのに、どうしてこんなに捻くれてしまうのだろう
『せめて、幸せになってね』
ああ、そうだ。
ようやく思い出した。
最後に言った言葉。
跡部の問いへの答えは長すぎて、頭で整理しきれなかった千石が精一杯伝えたいことをまとめて言い逃げた言葉。
そう、幸せになってくれたらそれだけで救われる。
跡部を好きだった千石自身も報われる。
だから、
自分は跡部を幸せにできなかったけれど、幸せは願っていると、
ただそれだけは伝えようと思ったのだ。
幸せになってとちゃんと言えた。
その事実を思い出したら涙は止まって、窓に映るぐしゃぐしゃの顔を笑えるくらいには心が落ち着いていた。
なんて厳禁なのだろう。
そう思いながらも切なさに笑える自分を今は愛してやろうとは思えた。
それが千石なりの決別であり、次への一歩だから。
お互いが愛し合っていたこと、
それが真実ならそれだけでいい
そう言えたら幸せじゃないか。
そして跡部がいつかそう思える日がきたら本当に幸せで幸せで、これ以上ないほどの幸福を感じられる。
だから千石はその核心と願望を込めて窓に映る情けない自分へと微笑んだ。
「君が幸せになれますように」
幸福論
END