試す人、試される人 1 しおりを挟むしおりから読む目次へ ふと意識が浮上したときに聞こえたのは、彼女が俺を呼ぶ声だった。 「――間宮」 「……うー?」 囁くような呼び声に頭を覚醒させようとするも、なかなか目は開かず、俺――間宮哲は、子どもみたいな呻き声をあげた。すぐ側で声の主が苦笑する気配がする。 「間宮」 もう一度、呼ぶ声。高すぎず、低すぎず、落ち着きのある柔らかい声。その声に誘われるように、俺はゆっくりと瞼を持ち上げた。 ぼやけた視界に映ったのは、薄暗がりで呆れたように笑う彼女の顔。 「冴香……?」 目を擦りながら訊ねると、彼女は軽く肩を竦めたようだった。 「よく寝てたとこ、悪いんだけどね。今日はそろそろ帰るから」 「泊まってかないの?」 まだぼんやりとした意識を叱咤して起き上がり、俺は訊ねた。冴香はふるふると首を横に振る。 「明日、早番だし」 「そっか」 残念と呟いてみれば、冴香はまた呆れたように笑って受け流した。その表情に、以前の狼狽えた、余裕のなさは見つけられない。俺の軽口にもずいぶんと慣れてしまったようで、その変化が嬉しくもあり、ちょっぴり寂しくもあったりする。 俺が彼女と付き合い出してから、数年が経った。元々、夫婦漫才のノリでやりあってた俺たちだから、付き合い始めても恋人独特の空気というものとは無縁だったのだが……まあ、それでも時間を重なれば、それなりに親密度は上がるわけで、色々と変わったこともある。 例えば、一人暮らしの俺の部屋に当たり前のように彼女が遊びに来ること。ふざけ半分で『さん付け』や『ちゃん付け』で呼んでた名前を、呼び捨てにするようになったこと。彼女が俺の余計な一言を、怒らないで笑って受け流せるようになったこと。好きなときに触れることを許してくれたこととか――色々、変わった。 とはいえ、彼女の照れ屋で意地っ張りなところは今も健在だから、そうそう甘い空気に浸れるわけじゃない。でも、たまに今みたいな空気が生まれることもある。普段の俺たちの雰囲気からはかけはなれた、静かで穏やかな、それ。そういうときの、彼女の話す声が俺は好きだった。だからさっきみたいに、いつもより力が入っていない、柔らかな声で呼ばれて起こしてもらえるなんていうのは、俺にとっては結構な贅沢だ。 |