肆 昔話とわたし しおりを挟むしおりから読む目次へ ――約束をしたのだ、遠い昔に。 それを果たすことは、出来なかったのだけど。 『……いかん』 雲の切れ間から、弱々しい月の光が地上を照らす。どこにでもあるアパートの屋根の上に無造作に座り込んだ男は項垂れて、呻くようにして呟いた。強く頭を掻きながら、途方に暮れた瞳で空を見上げる。 こんな夜更けに屋根の上にいるなど、不審者に間違われても仕方がない。だが、彼が他人に見咎められることはなかった。当然だ。自分はそういう存在なのだから。普通の人間には見ることが出来ない、存在を認識されない――そういう存在。 それなのに、彼女は。 『侮っていたわけではないのだがのう……』 彼女の力の強さを。目に見えぬものを捉え、拾い上げるその力で、あの娘は急速に取り戻そうとしている。もう既に失われてしまった、遠い日の絆を。思い出を。 そのことを知ってから、眠る彼女の側にいるのが怖くなった。時折、彼女の口から紡ぎ出される言の葉に、心を揺さぶられてしまうから。無防備な表情に、在りし日の想いを呼び起こされてしまうから。 彼女はもう、あのときの『彼女』ではないのに。そして自分も、あのときの『自分』ではなくなっているのに。 懸命に保とうとしている境界線を打ち消すように、過去を取り戻す彼女の力が今は恐ろしいとさえ思う。傷つくと知っているのに、それを止める術を持たない自分が恨めしい。 『潮時、かのう……』 自らの感覚(ちから)を疎み、嘆いていた彼女に、ほんの一時でも心穏やかな時間を過ごさせてやりたかった。最初は、それだけだったはずなのだが。 ひとつ、約束は果たされた。 その先に、彼女は何を見るのだろう。 気の遠くなるような昔から、男が願うことはただひとつ。 ――どうか、どうか。 屈託のない、あの笑顔が曇ることのないように。 そのためだったら。 『わしは、わしの存在など忘れられたままで構わん』 虚空を見つめたまま、男は呟き、それから静かに目を伏せた。 『昔話とわたし』完 |