肆 昔話とわたし しおりを挟むしおりから読む目次へ ごく小さく感嘆のため息をついて、視線の位置を少しずらした。視界に入ってくるのは低く垂れ込めた雲。所々、雲が薄くなっている所もあるから、今すぐ降ってくるってことはないだろうけど――帰る頃は怪しいかもなあ。一応、折りたたみ傘はカバンに入れてきたけど。胸中でひとりごちて、わたしはカバンを肩に掛け直した。そのときだ。 視界の隅っこに映った空に、何やら蠢く影を見た。 「……へ?」 思わず、足を止めてしまう。両目はしっかりと空に釘付けだ。黒い雨雲の間に見えていた、少し明るい灰色の空。そこをうねうねと這うようにして動く、暗い緑色をした巨大な――生き物? あんぐりと口を開けたまま、わたしが立ち尽くしていると、ユキヒラさんが珍しく歓声を上げた。 『龍ではないか!』 「……龍」 茫然と、ぽつりと呟く。そして、わたしは空を見つめた。はじめて目にする龍の姿。雲間から見える、ほんのごく一部分に圧倒されて、――そのとき。 ――世界から、音が消えた。 次に聞こえたのは、とてもとても懐かしい誰かの声。 「雨が降る前の空には」 その声をなぞるようにして、わたしは呟いた。 「龍が、飛ぶ」 『和紗?』 「……違ったっけ?」 わたしはきょとんと首を傾げた。すると、訝しげにこちらを見下ろしていたユキヒラさんと目が合う。 『違わぬが……』 ユキヒラさんが顔をしかめた。どこか気まずそうに。 『よく、知っておったな』 「え、だって」 ――ユキヒラさんが教えてくれたでしょ? そう言った瞬間、ユキヒラさんの顔から表情が消えた。 『な……』 「違ったっけ? 一緒に見ようって言ってたじゃん」 何で忘れてるのさと続けて、わたしは唇を尖らせた。茫然とした表情で空中に浮かぶユキヒラさんを、じろりと睨む。だけど、ユキヒラさんは何も言わない。 「ユキヒラさん?」 不審に思って、名前を呼んだ。それでも彼は動かない。返事もしない。ただ黙って、わたしを見下ろしているだけだ。信じられないものを見るかのような眼差しで。 「……ユキヒラさんってば!」 もう一度、呼びかけた。すると、弾かれたようにユキヒラさんの肩が揺れる。そして。 『あぁ……そうだな』 微かに震える声で言って、ユキヒラさんは額を押さえた。 『――そうであったな』 そう言って、彼は笑った。はじめて見る、今にも泣き出しそうな表情で。 どうしたの? そう訊きたかったけど、わたしは訊けなかった。そうするより先に、ユキヒラさんが口を開いたからだ。 『ほれ、さっさと行くぞ。また降りだしたら、かなわんからな』 やけに静かな口調で告げて、彼は前に進み出る。なめらかな、いっそ優雅とも言えるような動きで。そうして、わたしに背を向けた。これ以上、わたしが何も言えないように。 ――拒絶された。 はじめてだった。そのことに気がついて、わたしは顔を歪めた。胸を押さえて、その場に立ち尽くす。 (何か、悪いこと言ったのかな……) 思っても、もう訊けない。訊いたら、きっとユキヒラさんが傷つくんだ。だから、あんなカオしたんだ。 胸元を握り締める手に力をこめた。痛くて痛くて――胸が潰れそうな痛みって、こういうのを言うんだ。他人事みたいに思って、わたしは空を仰いだ。気を抜いたら零れ落ちてきそうなものを堪えるために。 そうして見上げた、空。 雲間を泳いでいた大きな影はいつの間にか、その姿を消していた――。 * * * |