肆 昔話とわたし
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「――う……?」

 呻くような声をあげて、わたしはむくりと顔を起こした。一瞬前まで夢と現の境をさまよっていた意識は、まだぼんやりとしている。両目の瞼の上下が手に手を取り合ってくっつこうとしているのを、必死の抵抗で開ける。

 うつ伏せになっていた身体をゆっくりと起こして、目許を擦った。ぼんやりとした視界に映るのは、アパートの白い壁。それと天井。窓にはベージュの遮光カーテンがかかっていて、その隙間から覗くのは、低く雲が垂れ込めた灰色の空。

 自分の身体に目を落とせば、腰の辺りにタオルケットが丸まっている。日だまりみたいな柔らかい黄色。その感触を確かめていたら――ふと、かかる声があった。

『起きたのか、和紗(かずさ)』

 それが自分に向けられたものだと察して、わたしはゆらりと視線を上げた。目が合ったのは、袴姿の若い男の人。胡座をかいた姿勢で、ふわふわと空中に浮いている。

(ええと、この人……)

 誰だったっけ? と、まだ醒めきらない思考の中で、わたしは考えた。とてもよく知ってる人。とても大事な人。それだけは分かるんだけど。

 何気なく首を傾げた仕種が気になったんだろう。男の人は眉をひそめて、訝しげに訊ねてくる。

『どうしたのだ、和紗?』

 低く、深く落とされた問いかけ。それが、わたしの中にじわじわと広がっていく。かずさ、和紗――それが、わたしの名前で。

 ――じゃあ、この人は?

「……ユキヒラさん、だ」

 唐突に思い出して、わたしはぽつりと呟いた。ユキヒラさんが意地悪く、訊ねてくる。

『何だ、寝惚けておったのか?』

「ん、……そうみたい」

 からかうように言われても、むきになって否定する気になれず、わたしはそう答えた。だって、本当のことだしね。何せ、夢に深く入り込んでいたせいで、自分の名前もユキヒラさんの名前も思い出せなかったんだから。寝惚けてた以外の何物でもない。

 我ながら間抜けだなあと思いつつ、わたしは欠伸を噛み殺した。朝から降り続いていた雨音に誘われてよく眠ったはずなんだけど、まだ眠い。ていうか、多分寝過ぎだ。その証拠に、ユキヒラさんが呆れた表情でこちらを見下ろしている。

『あれだけ寝ておいて、まだ足りぬのか?』

 どこか拗ねたような物言い。それを耳にして、わたしはこっそり苦笑した。一人で放っておかれて、退屈だったんだろうな。朝、起きたときには雨が降っていた。だから出掛ける気にもならなくて、わたしはだらだらと寝入ってしまってたんだけど。ユキヒラさんにしてみたら、さぞやつまらない時間だったろう。この付喪神さんはおしゃべりするのが好きだから。


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