肆 昔話とわたし
しおりを挟むしおりから読む目次へ







 ――雨が降る前の空には、龍が飛んでいるのだそうだ。

「本当? 彦(ひこ)」

 私が目を瞬いて訊くと、隣に座った年上の少年は得意げに胸を反らした。

「ああ、本当だ。龍は水神だからな。雨を連れてくる」

 父上達との旅の途中で偶然見たんだ、と彦ははつらつとした口調で話してくれた。龍は大気と水から生まれる精霊だという。彼らは春雷の時季に空で生まれ、普通の龍であれば一年を経て、再び水に戻る。だが、龍の中には、脱皮をして『成龍』になるものがいて――それを『龍神』と呼ぶのだそうだ。彦がそう教えてくれるのを、私はただただ感心して聞き入っていた。

「雨雲は、龍の化身とも言われてるんだ。だから雨が降りだす前の空には、龍が飛んでるんだと」

 一通り語り終えると、彦はやはり得意げな表情でこちらを見た。私は両手を叩いて、彼を称賛した。

「やっぱり彦は物知りだね! それに水神さまを見たことがあるなんて、すごいすごい!」

「まあな」

 鼻の下を軽く擦って、彦は笑った。得意満面といったその表情は、私が何より好きなものだ。私はそれを見つめながら、自身も破顔してみせた。

 物心ついた頃には、彦は既に守人(もりびと)として、私の側にいた。まだ幼く、外の世界を知らない私に、彼は色々なことを教えてくれた。山の中の歩き方に、傷に効く薬草の見分け方。天候の読み方。それは特殊な立場に置かれた私にとっては必要と言い難い知識だったけれど――それでも彦と一緒なら、鬱蒼とした森の中さえ、宝物の山に思えた。それくらい楽しかったのだ、彼と一緒にいることが。

『彦』という敬称が表す通り、私は彼を尊敬していた。私より年上とはいえ、同じ子どもなのに、彼は私の知る誰よりも多くの知識を持っていて、私を導いてくれる人だった。屋敷の中の誰よりも――実の両親よりも信頼のおける、最大の理解者でもあった。彼は私と同じ『世界』を共有する人だったから。

『姫さま、姫さま!』

「なあに、六太?」

 不意に肩を叩かれて呼ばれ、私は後ろを振り返った。そこにいたのは一見すると不気味な、でも意外と愛嬌のある顔をした河童の子どもだ。彼――六太は短い嘴のついた口をぱくぱくとさせて言う。

『姫さまだって水神見たことあるんだよ!』

「え?」

 そうだったろうか。六太の言葉に、私は首を傾げた。確かに私は今よりもっと幼い頃から、六太のような『あやかし』の姿を見たり、声を聞いたりしていたけれど。水神さまと呼ばれるような、力の強いあやかしにはまだ会ったことはなかったはずだ。

 眉根を寄せて、私は考えた。だけど、やっぱり心当たりは見つからない。頬に手を当てて悩んでいると、六太が少々憤慨した様子で口を開いた。



- 29 -

[*前] | [次#]






人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -