参 お月さまとわたし
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「……ひ、こ」

 健やかな寝息に混じって聞こえた娘の声に、男はびくりと肩を揺らした。そして、おそるおそる娘の顔を覗きこむ。

 娘は眠っていた。すっかり安心しきった表情で、胎児のように身体を丸めて。その様子にほっと息をつき、男は離れようとした。そのときだ。

「彦……」

 先程よりはっきりとした寝言に、男は身を硬くした。そして、まじまじと娘を見つめる。

 呼ばれた。間違いなく、呼ばれた。久方ぶりに聞くその呼び名に眩暈がする。

『……参った』

 男は額に手を当てて、呻いた。まさか、今このときに彼女からその呼び名を聞くとは思わなかった。

 胸によぎるのは複雑な感情だ。呼ばれて嬉しいはずなのに、だけどそれを喜んではいけないのだと戒める自分もいて。

『もう、手放せたものだと思ったんだがのう……』

 自嘲するように、口の端を吊り上げる。そして娘の傍らに座り込み、肩で大きく息を吐いた。

『さすがは斎(いつき)の力を持つ者と言ったところか』

 魂に宿りしその力の強さは、今生においても変わらないようで。

 目に見えぬものを拾い上げるその感覚(ちから)で、娘は夢の中、何を視ているのか。

 出来ることならば――。

『思い出さずにいてくれたほうが良いのだがな』

 取り戻したところで、娘は傷つくだけだ。

 彼女が今度こそ、健やかに幸せに在れるように――それを願うのなら、何一つ取り戻す必要はない。彼女の過ごす今生において、それは不要なものでしかないのだから。


 けれど、まだ。


『まだ、こんなにも――』

 彼女の呼び声は、自分の心を揺らした。それは確かに、自分にとっても痛みを伴うものであるはずなのに。

 なのに――まだ、こんなにも嬉しい。

『まったく、浅ましいものだな』

 吐息と一緒に洩らした呟きが、闇の中で静かに響いた。



『お月さまとわたし』完



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