弐 鬼やらいとわたし しおりを挟むしおりから読む目次へ 最初の一軒がやったことで、他の家でも始めたらしい。辺りがにわかに活気づく。 「鬼はー外っ!」 「福はーうちっ!」 微笑ましい光景を横目で見ながら、わたしは歩く足を早めた。すると、目の前を何かが通りすぎていくのが見えた。 「え?」 目を疑った。 すーっと音もなく横切っていったそれは、紛れもない異形のモノ。 目はぎょろりとあり得ないほど大きくて、口は耳元まで裂けんばかりに開かれて。 剥き出しの鋭い牙――そして頭に生えた角。 それは間違いなく。 「――鬼」 立ちすくんで呟いた。悲鳴をあげなかった自分を誉めてあげたい。 擦れた小さな声だったけど『鬼』には聞こえたらしい。わたしの存在に気づいたらしく、その虚ろな双眸と目が合った。 『オオォ……』 「――っ!」 地響きみたいな声に、わたしの身体は固まった。怖い、逃げなきゃ。そう思うけど、指一本も動かせない。 豆まきの声がひどく遠くに聞こえる。 ――鬼は外。 ――福は内。 掛け声とともに家々から追い出された鬼たちが、わたしの元へやって来る。 (や……だ!) 心の中で叫ぶけど、どうにもならない。近づいて来る鬼たちが怖くて怖くて仕方ないのに、目を閉じることすら出来ないのだ。 身動きが取れないまま、わたしは鬼に取り囲まれた。――そして。 「ひ……っ!」 今度こそ、喉元を悲鳴が駆け上がる。その瞬間、鬼が。 入り込んできた。 わたしの身体の中に。 一匹ずつ、次から次へと。入ってくるたびに広がっていく。胸の中に。 ニクイ。 カナシイ。 ネタマシイ。 言い尽くせないほど激しい負の感情が渦巻く。 (何なの……っ) 内臓をぐちゃぐちゃに掻き回されてるみたいに気持ち悪い。あまりの嫌悪感に涙が溢れてきた。 「も……やだぁ」 身体の中で暴れ回る感情の波を抑えつけようと、わたしはその場にうずくまる。 わたしが怒りたいわけじゃない。 わたしが泣きたいわけじゃない。 誰かの感情を肩代わりさせられてるような不快感。わたしという人間がどこかに追いやられてしまう、そんな恐怖。 「ユキヒラさん……っ」 唐突に思い出したのは、同居人の付喪神。 あの飄々とした、人を食ったような憎めない笑顔。 「助けてぇ……」 わたしは呟いて、唇を噛み締めた。だけど音匣は家にある。ユキヒラさんがここに来れるわけがない。 震える両足を叱咤して、わたしは何とか立ち上がった。周りを取り囲んでいたはずの鬼たちは、ほとんどわたしの中に入ってしまったらしい。そのせいだろうか。 (……重い) 何とか立ち上がることが出来たものの、身体が重くて仕方ない。涙も止まらず、内で暴れる嵐も静まらない。 けれど、このまま此処にいたらまた鬼がやって来るかもしれない。そうしたら今度こそ、わたしは『わたし』を失ってしまうかもしれない。 「帰らなきゃ……」 塀に寄り掛かりながら一歩一歩、足を踏み出した。家に帰ればユキヒラさんがいる。きっと何とかしてくれる。 だから、大丈夫。 そう何度も自分に言い聞かせて、わたしは家まで歩き続けた――。 * * * |