9 グレイ=ランダール しおりを挟むしおりから読む目次へ 「……言い忘れてたんだけど」 「――あぁ」 ぼそぼそと話し始めた椎菜の声に、アレスが首を傾げた。その表情が神妙なものに変化するのを見て、椎菜は慌てて付け加える。 「そんなに大したことじゃないんだけど!」 「あ、あぁ……」 「昨日のことで。その……一応、言っておかなくちゃと、今、思い出して」 ぶつ切りの口調になった椎菜を、アレスは心配そうに見る。だから、あんまりそうやって見ないで欲しい。別に大したことを言うわけじゃないのだから。にもかかわらず、何故か自分は緊張しているのだけど。 それでも言わないことには、いつまでもすっきりしない。精神衛生上、よろしくない。自身にそう言い聞かせ、椎菜は意を決して、勢いよく頭を下げた。 「――守ってくれて、ありがとう」 あのとき、何の躊躇いもなく、アレスは椎菜を庇ってくれた。魔物が『椎菜を寄越せ』と言っても、少しも怯むことなく、拒絶してくれた。取り乱してしまった椎菜を落ち着かせて、走り出せるように道を作ってくれた。そのすべてが、グレイを思い起こさせて、怖かったのだけど――でも、嬉しくもあったのだ。 だって、アレスは無事だったから。『大丈夫だ』と言った言葉に、嘘をつかなかったから。 だから、大丈夫だと思ったんだろうか。少しだけなら、甘やかしてもらっても、縋ってしまっても、彼はグレイのようにいなくなったりしないと――思ってしまったんだろうか。まだ、よく分からないけれど。 でも、この人に会えたことは――きっと自分にとって、良いことなのだと素直に思えた。 ゆっくりと椎菜は面を上げた。アレスは、何も言わない。今更何だと、やっぱり呆れているのだろうか。びくびくしつつ、目を合わせる。――と、アレスがくしゃりと顔を歪めた。 笑った、と椎菜は思った。多分、初めて、満面の嬉しそうな笑みをアレスが浮かべた。それが何だか眩しく見えて、椎菜は目を細める。 「どういたしまして」 柔らかく返ってくるアレスの声が、耳に快く響いた。何か、変だ。胸が痛い、ような気がする。でも不快じゃなくて、どうしてか自然と表情が綻ぶ。身に纏っていた、ありとあらゆる虚勢が剥がれ落ちていくようで――何だか心許ない気分ではあったけれど。 それでも、椎菜は笑った。彼に、笑顔を返したいと思った。喪失の恐怖も不安も、まだまだ尽きないのに、そう思える自分自身に驚きながら。 多分、きっと、すごく久しぶりに、心のままに笑えたような気がした――。 第九話『グレイ=ランダール』了 |