8 道標
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「――アレスさんと、ご一緒ではなかったのですね」

 開いた扉の向こう側に、長椅子に深く腰掛けた若者の姿を見つけて、マーサは白々しく声をかけた。唐突にかけられた声に、若者ははっとした様子で面を上げる。穏やかに射し込んでくる日差しの下で、どうやら微睡んでいたらしい。

 居眠りを咎めたわけではないが、若者は決まり悪そうにこちらを見た。茫洋とした表情を向けられて、マーサは微かに苦笑する。聞いていた通り、寝起きはあまりよくないらしい。

 無防備な表情を晒したまま、若者――ランディが何やら呻きながら額に手を当てた。その子どもじみた仕草が微笑ましくて、マーサはつい笑い声を立ててしまった。――小さい頃から、そうなの。あの人は寝起きが悪くてね。寝ぼけて、二度寝、三度寝は当たり前で、寝坊をしてはよく侍女頭に叱られていたわ。――そう懐かしそうに語る、あの姫の声が聞こえてくるようだ。

「な……?」

 ランディが眉をひそめて、こちらを見た。マーサは慌てて、笑みを引っ込める。まだ彼は、マーサと姫との関係を知らないのだ。説明する順序を間違えたら、更に余計な疑いを抱かせてしまう。そうなったら、彼女に頼まれたものを渡すことも出来なくなってしまうだろう。

 幸い、この場には彼しかいない。頼まれた物を渡すには、うってつけの好機だと言えよう。

 胸の内でそう考えて、マーサは軽く居住まいを正し、恭しく頭を垂れた。その姿勢のまま、口を開く。

「――ランディオーネ=ルダ=フォルテ様」

 口にしたのは、主であるかの姫君から教えられた、若者の本当の名。目一杯、含みを持たせて呼び掛けたそれを聞いて、ランディの気配が固まった。ゆっくりと面を上げると、大きく見開かれた琥珀の双眸に行き合う。ランディが、寝起き特有の掠れた声で問うてきた。

「何故、その名を知っている?」

 まだ少しぼんやりとしているのか、ランディの声に詰問するような響きは感じなかった。これまでの様子からして、最初から食って掛かられると思っていたので、マーサは拍子抜けした。だが、怪しまれてはいるのだろう。ランディの眉間には深い皺が寄っている。

 ――あの人と話すときは、もったいぶらずに早く本題に入ることね。とにかく短気なの。そういう所は、今も変わっていないでしょうから。

 先日届いた、姫君からの手紙にあった助言を思い出しつつ、マーサは服の隠しに手をやった。そしてなめらかな所作で、取り出したものをランディに差し出す。

 それは、一通の手紙。この国を治める若き女王――リラ=フィリス=アストリアから、若者に宛てられたものだった。

 ランディはおそるおそる手を伸ばし、それを受け取った。宛名に書かれた自分の――もう捨て去ったはずの名と、見覚えのある筆跡に両目を細める――懐かしそうに。けれど、痛々しく。

 手紙を見つめたまま、ランディが口を開いた。

「あいつと、どういう関係なんだ?」

「三年前に。リラ様が留学の名目で、このリウムに滞在されたとき、お世話をさせて頂きました」

 静かにそう答えると、ランディが納得したように「あぁ」と頷いた。それから、僅かに口許をゆるめる。



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