我が物顔で犬を散歩に連れて歩く老人も、ウォーキングをする小肥りの中年女性二人も、今日に限ってアパートの前を横切ることはない。閑静な住宅地なので、この時間帯になると、車は殆ど走っていなかった。皆川と二人きりの空間を邪魔する者など誰一人いなかった。

 だが、お互いジュースを飲み終わると、会話はそれっきり、途切れてしまった。新たに話を振ることも、昨日のされたキスの真意を聞き出すことも、階段に腰掛けながら項垂れる皆川を前にしては、そんなこと出来るはずがなかった。かといって昨日のように彼一人を残して自宅に逃げ帰る訳にもいかない。聡志に出来ることと言ったら、通路の果てにあるゴミ捨て場を、じっと見下ろす振りを続けてあげることくらいだった。
 電信柱に付いた街頭の光が、積み上げられた幾たものゴミ袋をぼんやりと照らしている。三月になってからは、その光の回りに小さな小蝿が湧いていた。真向かいにある聡史の家の塀には小さい頃、皆川と二人で描いた落書きがまだ微かに残っている。
 近隣に住む人の告げ口により、落書きが祖母にバレた後は罰掃除を散々させられたんだっけ。スプレーで描いたから結局全部は消せなかったけれど。
 ここから見下ろす景色は悲しいほど、六年前と何一つ変わらなかった。変わってしまったのは。目線の位置が階段の手すりより遥かに上になってしまったことくらいだろうか。
 それは至極当たり前の通りなのに。何故が気に入らなくて、足の爪先で、落ちていた小石を強く蹴った。カツン、カツンと階段を一段ずつ転がり落ちていく度に跳ね返ってきた小気味のよい音も、小石が段差の合間をすり抜けて落ちてしまうと同時に止んでしまった。たったそれだけのことで。理由もなく苛立ちっていた感情も急激に萎んでいった。自分と皆川だけが、この世界から完全に切り離されたかのような、そんな気持ちに陥ったからだ。それくらい、聡志にとって嫌なくらいの静けさだったのだ。
「付き合わせちゃって、ごめんね」
 ぽつりと、呟かれた言葉の方に顔を向けると、皆川と目線が合わさった。フッと一瞬だけ笑ったかと思うと、先程までジュースが入っていたビニール袋を広げてきた。ゴミを入れろということだろう。

「そろそろ聡志くんは家に戻ったいいかも。春になっても、夜はまだ結構寒いし」

 飲み終えたジュースパックを潰し、皆川が持っていた袋に入れる。

「行こっか」

 スウェットに付いた砂埃を軽く払いながら皆川は立ち上った。
 駄目だ。行っちゃう。

「皆川さんっ!」
 咄嗟に聡志は彼の袖を引っ張って、引き留めていた。

「ん? どうしたの」
 ところが、かがんでこちらを伺う顔を前にした途端、言い訳さえもに碌に思い付かないことに気付いてしまった。
 黙りこくってしまった聡志を、皆川はじっとみつめながら待ってくれていた。
 どうしょう。何か言わなきゃ。
 そう思うのに。聡志は皆川にかける言葉が見つからなかった。何を言ったら良いのか、分からない。目線を反らし、どうにかして答えを見出だそうと頭を働かせるが、全く見当もつかない。
 皆川のパーカーの合間から見える首筋には、小さなケロイドの跡が二つ。五年前から“ソレ”はあった。皆川は酒を飲むが、タバコは吸わない。彼の母親と離婚した父親は手に負えないレベルのアル中で、ヘビースモーカーだったらしい。数々のギャンブルで借金を作り、挙げ句の果てに母子を捨てて出ていったと言う。皆川から直接聞いた訳ではない。人づてに聞いた話だ。最低の父親だと誰もが思うだろう。それでも、皆川が父親のことを嫌いではない聡志は知っていた。
「一人くらい好きでいてあげても良いんじゃないか」
 そう言った彼が自身の父親を嫌っている訳がない。皆川は父親が好きなんだ。聡志と同じように。例え他人にどんなに非難されても。皆川は父親が好きなのだ。

“妻と子どもを遺して逝くなんて大馬鹿野郎だ”と、かつて父の友人だったという人に言われ、聡志は深く傷付いた。それを言った当人は家族を少しでも慰める為に何気なく呟いた一言だったのかも知れない。だが、聡志がその言葉のせいで傷付いたのは事実だった。皆川だけには、同じような真似をしたくなかった。例えそれが唯一、皆川を自分の元に引き留められる言葉だとしても。言える訳がない。聡志は皆川を傷付けたくは無かった。

「なんでも、ないです」

 皆川は自分の言葉を待っていてくれていたのに。結局、聡志は何も言い出せなかった。

「そっか」

 小さな声で寂しげに皆川はそう呟くと、腰を上げて階段を降り始めた。振り返って、聡志を咎め立てることはしなかった。

「じゃあね、聡志くん」

 階段を下りて、聡志を家の前まで送り届けると、皆川は鍔を返して歩き始めた。アパートとは違う方向に。
 このままじゃ行ってしまう。何処か、遠くに。

「皆川さんっ!」

 気が付けば、人目も気にせずに叫んでいた。

「引っ越しするんですかっ……皆川さんの家」

 ついに、言ってしまった。もう、後には戻れない。睨み付けるように
 再び目の辺りにしたアパートの前に並ぶ家具は、何度目を閉じて見返しても消えることはない。例えあれが、皆川の家に置いてあった物だったとしても。彼がどこかに引っ越すことになったとしても。別れ際に「またね」と一言返してくれるだけで。必ずまた会えるのだと安心できた。

「うん、田舎に住んでる叔母さんとこ」
 けれど、皆川は表向きの事実を認めるだけで、本当の事は何も言ってくれなかった。
 違ったら良いのにと願ってた悪い予感は当たってしまった。それは昨夜に限らずとも、前から分かっていたことだったけど。



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