例え噎せても、尚も謝り続けていたなのか。道の反対側から次第にアパートにと近付いて来る靴音に聡志は気付かなかった。
 ガタン。
 誰かが排水路の蓋の上を踏んだ。漸く人の気配に気付いて、袖口で濡れた頬を乱暴に拭い、顔を上げる。
 すると、
「もう塾終わったの?」
という声が下から聞こえた。
 驚いて振り返ると、くすくすという忍び笑いが、真夜中の静寂さを一時だけ打ち消す。

「おかえり、聡史くん」

 急いで階段の手すりに駆け寄り、身を乗り出して下を確認すると。ビニール袋を引っ提げた少年が一人、聡志の家の前に立って、こちらを見上げていた。

「トモ……皆川さん。居たんですか」

 一度顔を合わせてしまったのに、今更引っ込む訳にもいかず、諦めて向き合うと、
「さっきみたいに、トモ兄って呼んでよ」
と笑顔で言ってきた。どうやら、ばっちり聞かれてしまったらしい。何となく気まずくなって、咳払いしながら目を反らしたが、皆川は「懐かしいね」と嬉しそうに呟いた。

“トモ兄”

 小さい時には抵抗がなかった呼び名だが、高学年になるにつれて、次第に気恥ずかしくなり、いつしか、そう呼ぶのをやめてしまった。さっきは取り乱したせいで、思わず呼んでしまったけれど。

「これ、聡志くんの分ね」
「どうも、あの」
「隣座ってい?」
「別に……良いですけど」

 二階に上がってきた皆川からパックのフルーツ牛乳を受け取り、二人して階段のステップ部分に腰掛ける。皆川が手にしていたビニール袋の中には、もう一つ飲み物らしきモノが入っていた。柑橘系のフルーツがプリントされた、全面イエローメタリック仕様のアルミ缶。一瞬、チューハイか? かと思いきや、よくよく見てみれば、最近テレビでもコマーシャルしている新発売の炭酸飲料だった。

「ん? こっちのが良かった?」
「や、お酒かと思って」
「ふふふ。残念でした。小学生の聡志君はまた今度ね」

 小学生って言っても、一つしか変わらないじゃないか。あと数日で卒業だし。

 内心はそう反発したものの、口に含んだフルーツ牛乳と一緒に飲み込んだ。今はその話題に触れたくは無かった。卒業とか、入学式とか、そういう類の事は。どんなに誤魔化そうとしても、最終的にはきっと、「別れ」の話に行き着いてしまうから。
 去年の三月まで聡志と同じようにランドセルを背負っていた皆川。しかし今はワイシャツの上から黒いヨットパーカーを羽織り、下はダボついた灰色のスウェットを履いている。決して良い見本とはいかない格好だが、聡史より一足早く中学生になった。彼が通う公立の中学は、聡史が今通っている小学校とそんなに距離は変わらない。四月に、聡史も彼と同じように中学生となる。それでも、もう一緒に登校することはないだろう。聡史が通うのは、私立の中学だからだ。

 お父さんと同じ、学校の先生になりたいんだ。

 進学塾に入る前。皆川から最後の飴玉を貰った日に、彼にだけに告げた夢。
 電車で二時間近く離れたその学校を志望した理由。それは亡くなった父親の母校だったからだ。



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