「すっごく寂しかったんだよ?」
シキの肩口に頬を寄せながらルートは囁き告げると、伸ばした腕を首元に絡ませてきた。
「直ぐ、戻るってシキは言ったのに」
おしおきだと称して、背後から容赦なく耳に吹き込まれる甘い吐息。先程少年達に追い詰められた時と違った緊張感が走り、シキは硬直した。
「ごっ、ごめ……ん。ちょっと他区の人達に絡まれちゃってて」 「なかなか帰って来ないし。すっごく心配したんだよ?」
耳朶を甘噛みされ、空いた左手がシキの服の中を這う。その細い指で脇腹を撫で回された瞬間、 「ダ、ダメだよっ、ルート! み、みんな、みてるからっ」 とうとう、シキはたまらくなって、声をあげた。
「真っ赤になっちゃって。可愛いねぇ、シキは」
赤面しながら狼狽するシキの反応を予想通りとばかりにルートはくすりと一笑した。背中に回していた腕をほどき、膝立ちで正面に回り込むと、 「ほら、口あけて?」 赤子を諭すように言って、形の良い唇を惜しげもなく、シキのそれに重ねてきた。 熱を持った舌が遠慮無しに、口中に入り込んでくる。口腔を舐め回され、奥で縮こまっていた舌を無理やり引っ張り出された。お互いの舌を絡め、水音を立てながら唾液を混ぜあう行為に、シキは途轍もなく目眩を覚えた。唇が触れた瞬間から、体の芯から可笑しくなる。 それでも、シキに拒もうとする気は起きなかった。寧ろ、ずっとし続けて欲しいとさえ思う。彼から受けるキスは毒だ。中毒性のある、麻薬的なキスだった。
B区のリーダー、シデンの言う通り、確かにルートを抱いた。とはいっても、シキとルートは俗に言う恋人同士という間柄ではない。誘惑に負けて、体の関係を持ってしまったが、ルートとはあくまでも同室同士という仲だ。 情報や金などを得る手段として、ルートが不特定多数の人物と関係を持っていることは、此処では周知の事実だった。 初めてそのことを知った時。当然いい気分などするはずなかった。友人として、今すぐそんな不貞なことは止めてくれと声を大にして言いたかった。しかし、彼が根回し役を続けてくれたおかげで、A区が今まで模範囚として過ごせられたたのも、また事実であった。 シキなど、せいぜい他人より速く走れる程度であり、ルートのように交渉術に長けている訳ではない。ましては他区のリーダーのような、統率力がある訳でもなく、圧倒的な力がある訳でもない。 そして、彼の恋人ですら無いのだ。ルートの行いを容易に止めさせされるほど、今のシキに権限も力も無かった。 目ざといルートのことだ。親愛とは明らかに線を引いた、彼に対して密かに抱いている感情など、とうに知られてしまってるだろう。此処では他人に想いを寄せることなど、弱み以外のなにものでもない場所だというのに。施設での暗黙知も覆してしまうほど、シキにとってルートは大きな存在だった。
長いキスを終えた後。二人の唇に繋がっていた銀糸がプツリと途切れた。肩で荒い息を吐き、口の端から溢れてしまった涎を慌てて袖口で拭う。すると、唇を擦っていた腕を取って引かれた。 気後れするシキを余所に躊躇いもなく、人差し指を口に含むと、舐り始めた。その大胆さにシキが見とれているうちに、ベルトを外そうと、膝上にルートが手を這わしていた。 「だ、ダメだよっ!」 とっさに振り払うと、拒まれたことに腹を立てのか、 「どうしてよ、シキだって嫌じゃないでしょ?」 と僅かに険のある声で尋ねられる。
「だって……今、朝だし!」 「何言ってんの。今更、朝でも夜でもカンケーないでしょー。どうせ、あのカメラ赤外線機能付きなんだから」 見なよ、とでも言いたげに鉄格子の合間から、気だるげに外の通路をルートは一瞥した。天井に取り付けられている監視カメラは、一部屋に一機ずつ設置され、檻の中に居る収監者達に向いており、絶えず目を光らせている。ところが、ルートから言わせれば一般区、特に看守から模範囚と見倣されているA区のカメラなどお飾り程度らしく、規定時間外に檻から勝手に出ることさえなければ警報器すら作動しないという。
「で、でも」 「隔離区域の連中じゃあるまいし、監視もそこまで徹底してないでしょ」 気にし過ぎだと、彼は笑うが、シキが気にしているのはカメラのことではなく、主に情事の際に漏れてしまう声のことであった。監房の壁は決して薄い訳でもないが、如何せん正面が鉄格子なのだ。いくら毛布などで覆い隠し、中の様子が丸見えになってしまうことが防げても、区域全体に声や音が響いてしまうだろう。
「それに見ようと思えば、入浴やら、排泄やら、果ては自慰行為まで隅から隅まで徹底的に録画映像でチェックできるんだよ。シキだって知ってんでしょ?」 「だけどっ」 「シキは、おれとスルの。厭きちゃった? おれのカラダって、もう魅力無い?」
嫌だと言っているのに。猶も事を進めようとするルートにシキは辟易した。彼に対してだけは、強く拒めないことを分かっているくせに。 「フフ、そんなことないよねぇ?」 「や、やめて。あっ」 「素直になりなよ、シキ。我慢したって毒だよ。カラダにも、ココロにもさぁ。それに、今日は折角、特別な夜になるんだから」
何処かに含みを持たせた声音にはっとして、ルートを見る。いつもの、可愛いらしく甘える顔はそこには無い。隙あれば獲物の喉元を噛み千切らんとする、獣の目だ。 “特別な夜”。それは看守に悟られぬよう、ルートと二人で決めた、秘密のキーワードだった。 この白い監獄塔から脱出する為の。反乱を起こす人員が集まったという合図だ。 「ね、だからおれを抱いてよ、シキ」 甘えた声なのに。彼の瞳は、有無を言わさぬ静かな気迫を備えていた。 「合図」に答えるべく、シキよりもずっと華奢で柔らかな手を握ると、
「ルート……」 冷たい床に、彼を押し倒した。
脱獄に全くの不安を感じない訳ではない。これまで何度も計画を練り直し、脱獄決行日当日に大事を取って中止にしたこともある。けれどもシキにはルートという絶対的な自信があった。
(大丈夫だ。ルートと一緒なら。きっと全て上手くいく)
その日の夜。彼らは脱獄計画を決行した。
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