それから、少しの間の記憶がない。正気を取り戻した時には、住宅もビルも外灯も人もない、殺風景な道を歩いていた。闇が世界を支配している。肩身の狭そうなひとりぼっちの月はまさに希望の欠けた俺の心を示していて、平和な世界を脅かす尖鋭な凶器へと化していた。「近寄るな、近寄ったら刺すぞ」と鈍い光を見せびらかしている様は、なんて寂しげ。
 君はトラックに轢かれて死んだ。薬物を乱用し、夢と現実を見分けることのできなくなった男の暴走が原因だった。同僚、家族、友達、恋人、様々な人の賑わう昼間に発生した事故であるため、被害者は少なくなかったが、死に至る重傷を負ったのは君だけだったらしい。警察が言っていた。そうだ、俺は警察と話をしたのだ。
 ずるずると芋蔓式で少しずつ記憶が甦る。あの後、俺は蹌踉たる足取りで君の担がれた救急車に乗り合わせ、病院にて訃報を聞いた。急すぎる展開に頭がついていけず、茫然自失の状態に陥りぐったりと項垂れていたところに警察が来て、頼んでもいないのに事の顛末を知らせてくれたのだった。俺はショックのあまり過呼吸になった。近くにいた医師が手早く措置をしてくれたので、すぐに落ち着くことができたが、表情を変えない警察は慣れた手つきで身上調査を終えると、「人の命よりも仕事の方が重いのだ」と言わんばかりに早々に去った。警察とは、いつから冷たい生き物になってしまったのだろうか。君が輝きを失った瞬間からだろうか。
 結局、この殺風景な道は何処なのか、俺はどうやって此処まで来たのか、何処に向かって歩いていたのか、はたまた行き先は決めずに浮浪していただけなのかを思い出すことはできなかった。立ち止まって考えていても仕方ないので、再び歩みを進めることにする。そのうち何かが見えてくるだろう。
 君がいた頃は、足下が見えないほど暗い道でも、高い太陽の照らす道より明るい道のように思えたものだった。それが今は、地獄の底に通じる道より暗い道なのだと感じている。君はもうひとつの太陽だった。太陽を失って残るものは、虚無感、孤独感、絶望感、そして脱出口のない闇だ。
 月がちかちかと光っているのを見て、泣いている、と思った。突如現れた無数の流れ星は月の涙に違いない。悲しみに満ち溢れたそれだからこそ、「せめてあなたは幸せに」と他人の願い事を叶えるのだろうか。ならば、不幸な俺の願いも叶えてほしい。君の小さな手を握らせてくれ。君の華奢な身体を抱きしめさせてくれ。君の温もりを感じさせてくれ。君を感じさせてくれ。笑ってくれ…。
 ばからしい、と唾を吐き捨てた。君は死んだ。これは揺るがない事実なのだ。笑うことなどない、二度と。ひゅるっと空気が唇を滑った。
 それでも、前に進んだ。「早く行こうよ」という君の声がした気がしたのだ。
 少しずつ人が見えてきた。初めは、同じように闇に呑まれた人の群れかと思ったが、どうもその表情は明るいものばかりだ。
 歩けば歩くほど、人は増えた。此処は何処なんだと強く懸念を抱いた時、盛大な音とともに色とりどりの花が夜空に開花した。思わずアッと声が出た。記憶が、事件の起こるずっと前の記憶が甦ったのだ。
 今日は花火大会だ。君に浴衣を着てほしくて、君の白い肌に似合うであろう白い浴衣を買ってあげようとデートに誘ったのが、一週間前。君は快く頷いてくれて、うかれながら出かけたデート当日というのが、今日。あろうことか君はトラックに轢かれ、白ではなく赤を纏い、この世を去ってしまったのだ。俺が見たかったのは赤でもなく死でもなく、白い浴衣を着てはしゃぐ君の命一杯の笑顔だった。
 ひゅるひゅると空気が抜けていく。苦しくて、涙が出た。このまま君の後を追うことができたら、全てのしがらみ、負の感情から解放されることも可能なのだろうが、過呼吸で息絶えることはないそうだ。だからといって、自殺をすれば、君を一番悲しませる結果となるだろう。――それとも、優しい声で「苦しまないで」と囁いてくれるだろうか。
 帰路に着いた。此処が花火大会の会場だと分かれば、帰り方も分かる。一度立ち止まって空を仰ぎ、君を悼む花火ではなく、背後でひっそりと怒りを主張している三日月を睨み付けてから、ひたすら地面を見下ろして歩いた。


≪息ができないほど愛した君には白いウエディングドレスも似合っただろう≫

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