上京してもう何年が過ぎただろうか。東京を歩いているとよく思う。ここで暮らしていると時間感覚がなくなっていく。夜になってもたくさんの電飾で照らし続けている東京の明るさは目が痛くなるほどだし、たくさんの人たちが往来していて一日中騒がしい。上京してきたばかりの頃は、そのまさしく都会といった雰囲気に幾分か心を躍らせたものであるが、今はただ単に雑音だらけの鬱陶しい町でしかない。
 雑音といっても、車のエンジン音や他人の話す声ばかりを指すのではない。この町で暮らしていると、隣を歩く人、前を歩く人、後ろを歩く人が全て薄っぺらく見えてくる。すると、自分までもが薄っぺらく見えてきて、特徴のない誰に気にされることもない存在、むしろ、歩くのに邪魔だからいない方がいい存在、まさしく雑音のような存在であると感じてしまうのである。悲しい、と思う。しかし、この悲しみもありふれた感情で、社会を動かすには邪魔でしかない雑音だ。雑音は雑音に紛れて消えて、誰に届くこともない。
 今日は土曜で、会社は休みの日だ。服でも買いに行こうかと思って外に出たが、その気もなくして今はただ意味もなく歩き続けている。長い信号を待って横断歩道を渡ると、反対側から歩いてくる見知った顔を見つけた。俺とともに上京してきた俺の彼女だった。声をかけると、彼女もふらふらしていただけだという。そんな彼女の瞳には悲しみが帯びていた。俺達は合流して、何も話さずにひたすら彷徨い続けた。

 歩き疲れてカフェでひと休みをすることにした。コーヒーを飲みつつ、ふとビルとビルの狭間を覗くと、空は暗くなり始めていて、だいぶ時間が経ったということに気がつく。しかし、東京は昼のように、いや、昼以上に明るい。この人工的に作られた光に包まれた町並みを綺麗だと思う人もいるらしいが、俺には到底そんな感情は抱けない。人工的に作られた光には優しさがない。強引に目に入ってくる感じがたまらなく不快なのである。より俺がちっぽけな人間になってしまうような、そんな感覚もある。
「電気は嫌い」
 ガラス戸越しに外を見つめる彼女が呟いた。彼女も同じようなことを考えていたのだろう。彼女もこの町に来てうんざりしているタイプである。当然だ。彼女はこんなところに埋もれていていいような存在ではない。彼女は、雑音なんかではないのだから、素敵な音をその心に宿しているのだから、雑音なんかに紛れていてはいけない。その瞳に帯びた悲しみも俺とは違って、まだ澄んでいる。
「ねえ、元親。私、疲れちゃった」
 彼女はじっと俺を見据えて苦笑いする。目尻が微かに光った。その光はとても綺麗で、偽物などではなかった。光が零れて、頬を伝った。
「雑音だらけの世界で、雑音にしかなれない自分が情けなくてしょうがないの。本当は、あなたと一緒にいたかったし、あなたのようになりたかったんだけど、このままだと、近いうちに本当に消えてなくなっちゃいそうだから、私ね、帰ることにしたよ。故郷に」
 彼女は俺にキスをして、コーヒーの代金をテーブルに置くと、ごめんなさい、と一言残して足早に店を出て行った。もう帰ってこないだろう。
 本当は俺も一緒に帰りたかった。「一緒に地元で静かに暮らそう」と話したかった。だけど、現実的に考えれば、地元に帰るということは職を失うということで、一緒に静かに暮らすなど経済的に不可能であり、今と種類が違っても、今と変わらず苦しむだけだ。苦しみに彼女を巻き込んではいけない。彼女は「あなたのようになりたかった」と言ってくれたけど、雑音だったのはどう考えても俺の方で、クラシックコンサートで極力咳払いをしないように注意するのと同様に、雑音の俺が彼女の舞台を邪魔してはいけない。それが、彼女のため。
 分かってはいるけれど、涙が止まらなかった。これが俺の生みだせる唯一の自然な光。いつかこの光も生みだせなくなるのだろうか。
 カフェで情けなく嗚咽を漏らす俺を、辺りの雑音たちが嫌そうに睨みつけている気配を感じた。俺の悲しみは雑音で、雑音は雑音に紛れて消えて、誰に届くこともない。もう、彼女にも。


≪ざわざわ≫

後書き…
昔書いたやつのリメイク版です。

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