第五話 夕暮れ時
 今日も遅刻寸前に教室に入った。寝坊ではない。もしまた長曾我部元親が教室にいたらと考えると、ホームルームまでの自由な時間をとても億劫に思ったのである。案の定、長曾我部元親は今日も私の前の席に座っていた。あれだけはっきりと突き放した後であるというのに、何もなかったかのように無垢に笑いかけて、「おはよう。今日もぎりぎりだな」と挨拶までしてくる。あまりに濁りのない表情にはこちらが狼狽えてしまうほどだが、無視というのも気分が悪いので「おはよう」とだけ返して着席した。嬉しそうに頷きながら前に向き直ったところをみれば、昨日のように騒ぎ立てるつもりはないのだろう。私が朝を苦手としているということで気を使ってくれているのかもしれないが、沈黙は思っていたより気まずい。ただ、もう二度と話しかけてこないでほしいという気持ちもあって、矛盾する二つの感情が説明しようのない複雑さを生み出している。どうしようもなく落ち着かないので、持ってきた道具を鞄からゆっくりと取り出し、不自然に長い整頓を続けた。間もなく担任が教室に入ってきて、少しだけほっとした。

 私は順応性がいいのかもしれない。たったの数分しかないホームルームだが、担任の抑揚のない話し声を聞いているうちに冷静さを取り戻すことができた。
 沈黙に戸惑うこともなければ、馴れ合う必要もない。だからといって、無視までせずともいい。今までもそうしてきた。絶妙な距離感こそが、世の中をうまく渡っていくための最大のポイントである。不良一人くらい軽くあしらってしまえばいいのだ。
 教師の鋭い眼差しをものともせずに、プリントで作った紙飛行機を窓から飛ばして遊んでいた長曾我部元親は、予想どおり、ホームルームが終わると元気よく振り返った。先手を取って「なにか」とそっけなく、いかにも興味なさげに吐き捨てたところ、さすがの長曾我部元親も一瞬躊躇うような仕草をみせたが、すぐに持ち前の爽やかな笑顔に切り替えて言った。
「あのよ、今日お前にわりと大事な話あんだよ。頼むから昼休み屋上来てくれよ、な」
 拒もうとする私を制するように肩を軽く叩くと、「じゃ、今日も退散すっか」と楽しげにサボり宣告をして、口を挟む間もなく教室から走り去ってしまった。「ああ」と情けない声が漏れた。どうも一筋縄ではいかないようだ。おまけに周りの視線が痛い。九割方周りの考えているような話はしないし、私は一見地味な不良と仲良しの変わり者でもないが、弁明しようとすればするほど誤解は深まりそうな気がするので、黙って次の授業で使う教科書をロッカーから取り出した。ロッカーを閉める際、シルバーの塗装に映った太陽がわっと目に飛び込んできて思わず顔を顰めた。窓の外は鬱陶しいほどに晴れている。こんな日はあまり外に出たくない。ましてや、屋上のような光を遮るもののない高所なんかは論外だ。そういえば、今時学校の屋上は危険な場所として施錠されているのではないだろうか。
 机にノートを広げ、愛用のシャープペンシルをなにげなく指で一回転させた時、長曾我部元親の一方的な要求は聞かなかったことにしようと思った。

 放課後になって、この学校で最も管理が粗雑で廓寥としている図書館に籠ることにした。
 図書館の管理は、交代制で図書委員が務めることになっているのだが、実は、数人の生真面目な生徒以外はカウンターに座っている姿を見たことがない。よって、利用者が各々で貸し出しの機器操作を行っているのだが、それさえも面倒くさがって、いつのまにか本を抜き取っていつのまにか棚に戻すようなことをしている人もいる。教師はそれを見て見ぬふりをしているままだ。このいいかげんさはやはり田舎の学校なのだと思う。しかし、息がつまるような堅苦しさがない分、気軽に訪れることのできる柔らかい雰囲気になっていて、昼休みの時間になると少々騒がしくなる隠れ人気スポットだ。ただ、放課後にわざわざ図書室に集まって遊ぼうという人はまずいないし、勉強がしたい人はこんな場所は利用しないので、放課後は静かになるのである。
 長曾我部元親は不良だ。懸命に部活動に取り組んでいるとは思えないし、いつまでも学校に居座るようなタイプではないだろうが、昨日のことを思えば待ち伏せの可能性がないとも言えない。これ以上関わってはいけないと、私の中の黄色信号が点滅しているのを感じる。念には念だ。今度こそ長曾我部元親も懲りることだろう。
 やってることも考えていることもいいこととは言いがたいが、夕日で橙色に染まった図書館を眺めていれば不思議と何を感じることもなかった。そうだ、寝てしまおう。こんな時はすぐに眠りにつけるのだ。
 目を閉じると、いつかのようにピアノの音色が聞こえてきた。聞いたことのない曲だったが、嫌いではなかった。

 夢を見た。
 水平線に夕日が浮かんでいる。橙色の世界で、温かい日差しと冷たい風を全身に浴びながら、私は歩いている。誰かに手を引かれながら歩いている。「ねえ、どこ行くの」と誰かに聞くと「いつもの場所だよ」と誰かは答えた。私はいつもの場所を知らない。「ねえ、君は誰なの」と誰かに聞くと、誰かは驚いた面持ちで乱暴に手を振り払った。
「お前なんか嫌いだ」
 誰かは泣きそうな顔をしていて、私も泣きそうになった。

 目を覚ますと、図書館からは色が消え、辺りは薄暗くなっていた。遠くの空にはかろうじて橙色が残っているが、ピアノの音も部活動の音も聞こえないので、それだけ遅い時間なのだろう。随分と長いこと眠ってしまった。おかげで嫌な夢も見た。
 もう帰ろう、とだるさの増した上体を起こした。その瞬間、腕を掴まれたような感触があって、心臓が飛び跳ねた。声も出ないほど驚いて、掴まれた方の腕を振り回しながら怖いものみたさで振り向いて、もっと驚いた。長曾我部元親がいた。「気づかないまま帰っちまうとかねえよなあ」とぼやきながら苦笑している。
「な、なんで」
 震える声でようやく一言零すと、なにかを勘違いしたのか、慌てて「わりい」と手を離した。それがなぜだか悲しかった。
「びっくりしただろ。俺も図書室で居眠りなんてびっくりだったけどな。ほら、お前の自転車目立つからな」
「わざわざ探したの?」
「ああ。昼のこともあったしな」
「そんなに大事な話だっての?」
「うーん、まあな」
「でもさ、屋上なんて鍵がかかってたでしょ」
「あ、そうか。知らねえんだよな」
 長曾我部元親は悪戯っぽく笑う。
「実はちょっくら前に俺が解錠したんだよ。ほら、ピッキングってやつ。あの鍵古かったから楽勝だったぜ。あ、そうだ。今からでも屋上行かねえか。つーか、行こうぜ。掃除もしといたから結構居心地いいし、眺めもいいんだ」
 呆れた。いくら管理のなっていない田舎の学校だからといって、ピッキングで侵入禁止区域に立ち入り、それを自慢している人など見たことなかった。しかも、掃除までしたのだと言う。
 当然長曾我部元親の唐突の誘いには乗る気になれなかった。ただ、人生初の学校の屋上には興味があって、矛盾する二つの感情がまた説明しようのない複雑さを生み出し、情けなくも一刀両断できずに、ああともううともつかない唸り声のような音が、喉で繰り返し鳴っている。
 数分唸った末に、逡巡する私を見かねた長曾我部元親が「起きるまで待ってたんだがよお」と耳の痛い皮肉を呟いて、それが決め手となった。結局のところ、話に付き合うことになってしまったのである。


≪作戦失敗≫

後書き…
ひとつの話にしたかったんだけど、長くなったんで屋上の話は後ほど。
にしてもヒロインがどんどんツンデレの方向に走っている気がするんだが、この先大丈夫だろうか(笑)。ちょっと心配です(笑)。

prev next


[戻る]
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -