第三話 寝不足
 昨日はあまり眠れなかった。最近悪夢を見ることが多いのだが、昨日は特に酷く、悪夢を見ては目覚めるの繰り返しで、五回目くらいの時に寝ることを諦めた。そのためか、今日は体の調子があまりよくない。せっかく空が晴れたというのに、これっぽっちも快適ではないというのは、損をしているのだろう。
 自転車を漕ぎながら、銀髪の青年がひとりバスケットボールをしていた公園を一瞥した。青年はいない。桜は昨日の雨で完全に花が落ち、いくつもの青々とした葉を枝につけている。もう死んでいるとは思わない。散った花弁は隅にたまっているけれど、それも今は死骸とは思わない。普通の、寂れた公園だ。
 軽く眩暈がして、自転車を止めた。今日は適当なところで早退した方がいいかもしれない。少し大袈裟につらいという顔をすれば教師は簡単に家に帰してくれる。仮病の場合も同じだ。早退は欠席ほど問題にはならないから、学校にいたくなければいなければいい。
 焦点がしっかり合ったところで、再び自転車を漕ぎ始める。

 二限を終えたところで限界がきた。寝不足がたたって授業中に居眠りをしてしまったのだが、相当昨日の出来事が応えたのか、また悪夢を見ることになった。漫画のように声を上げたり飛び上がったりすることはなかったが、静かに驚き、静かに心身にダメージを負った。頭痛がするし、眩暈も朝より頻繁に起こるようになった。顔を歪ませながら授業を受けるほどの根性はない。
 頑張りすぎたかなと考えつつ、帰宅するために荷支度を始めた。もちろん、保健室の先生に「帰って休んだ方がいい」と言わせるのは今回も楽だった。
「あれ、お前。もしかして帰っちまうのか」
 お節介な奴だなと苛立ちながら振り返って、思わず息を飲んだ。昨日の青年が、そこにいた。なんでここにいるのかと訊こうと思ったら、それに気付いたのか、青年はにししと意地悪く笑い、なぜだか楽しそうに言った。
「俺ら、今年から同じクラスなんだぜ」
「え、転校生?」
 すると、青年は目を見開いてから、参ったなという風に頭を掻き毟った。
「俺、一年ん時からこの学校いるんだけど。まあ、クラスはずっと違ったけどなあ、俺ってそんなに影薄いのか。あ、えーっと、俺、長曾我部元親。変わった名前だろ」
 それにしても知らねえなんてなあ、と長曾我部元親と名乗る青年は項垂れる。正直面倒くさかった。長曾我部元親を知らなかったのは、高校などに興味はなく、人の顔や名前を覚えようという努力をほとんどしてこなかったからだ。周囲との縁を完全に断ち切るといろいろと面倒なので、同じ文系の女子は多少覚えているが、無縁でも何の問題も起こらない男子は顔と名前が一致する人間が全体の二割いたらいい方だろう。それを説明して謝るほど今は元気ではない。
 スクールバッグを抱え上げた。なにかをぶつぶつと呟いている長曾我部元親を尻目に早足で教室から出た。

 学校のチャイムが鳴ると、駐輪場は登下校時には想像できないほど静かになる。学校の雰囲気は大のつくほど嫌いだが、早退する人間しか知りえない、まるで異次元のようなこの空間はまあまあ好きだ。嵌まりそうになっていた沼からぎりぎりのところで脱出できたような安心感を覚える時もある。今も少しだけほっとしている。
 実のところ、かなり困惑していた。一度は幽霊かとさえ思った人間と昨日の今日で再会することになるなんて思ってもみなかった。しかも、同じ学校で、同じクラスだと言う。
 かぶりを振った。よくよく考えれば珍しいことはない。私の通学路の途中にある公園でバスケをしていたということは、近くに住んでいる可能性が高く、つまり、近くにある高校に通っている可能性だって高いのだ。どちらかというと、長曾我部元親を知らない自分の方がおかしいに違いない。ちょっと目立った髪色をしてはいるものの、長曾我部元親はやはり普通の高校生だ。――普通の?
 自転車の鍵を取り出すために鞄を漁っている手を止めた。昨日の光景が脳裏をよぎり、再度かぶりを振った。雨の中、ひとりでバスケをしていた青年の胸中は今も分からない。
「知ってるぜ」
 思わず肩が跳ねあがった。長曾我部元親だ。
「苗字名前、だろ」
「は」
「は、じゃねえよ。お前の名前だろうが。お前と違って俺はお前の名前結構前から知ってるんだぜ」
「はあ。というか授業、始まってるけど」
「俺、サボるの得意だからよ。お前もそのクチだろ」
 知ってか知らずか、長曾我部元親はまた意地悪く笑った。むっとした。
「勝手に一緒にしないで。今日は具合よくないから早退するの」
「ふーん?」
 長曾我部元親が探るように顔を覗き込んできた。私は直後に目を横に逸らした。性格が捻じ曲がっているからなのか、普段から友好的ではないからなのか、こういう真っ直ぐな視線は苦手だ。
 長曾我部元親は首を傾げた。
「昨日の、応えてんのかと思ってよ」
 だって泣いてたろ、と付け足した。ばれていたようだ。動揺する心をなんとか悟られないよう、咄嗟に横に逸らしていた視線を長曾我部元親に戻して、じっと見据えてはみたものの、逆に分りやすかったようで、意地悪く笑うのではなく心配顔をされてしまったものだから、全身の力が抜けた。
 自転車の鍵を見つけた。何も答えないまま、駐輪場から自転車を引っ張り出した。長曾我部元親も何も言わずにそこに立っている。
「あのさ」
 まだある背後の気配に初めて話しかけた。不思議と悪い気分ではない。
「昨日はいきなり叩いちゃってごめん」
 素直な気持ちだった。うんうんと満足そうに頷く気配を感じて、私も満足した。
 振り返らずにペダルを漕ぎ始める。校門を出るところで「またなー、今日はちゃんと寝ろよー」と叫ぶ声が聞こえた。ただのおちゃらけた軽い人かと思ったが、意外とちゃんと見てるし、しつこくない。少し馴れ馴れしいけど、嫌いじゃない。人に対してこう思ったのは久しかった。
 吹きぬける風が心地いい。晴れて、よかった。いつのまにか頭痛も和らいでいた。
 今日は、眠れそうな気がする。


≪変なやつ≫

後書き…
元親マジックです(笑

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