第一話 月光
 皆が帰って静まり返った教室で、私はただひとり、机に身を委ねながら無限に流れていく雲をひたすら目で追いかけていた。この行為に特別な意味があるわけではないが、席から立ち、家に帰るという何百回とやってきた行為に気怠さを感じていた。単なる怠惰とは少し違う。面倒くさがりではあるものの、そのような単純な作業までできなくなるほどだらけた性格ではない。
 とにかく疲れている。激しい運動をしたわけでも、長時間勉強を続けたわけでもないが、もやもやしたものが常に心臓に纏わりついているような感触が、今日は特に気持ち悪い。心臓に全身のエネルギーを吸収され続けているのではないかと頭の悪い答えを導き出してしまったところをみれば、疲れの深刻さは明瞭である。
 寝てしまおう。親は放任主義だから帰りが何時になろうが構わないし、あまり遅くならないうちに見回りの警備員が声をかけてくれるだろう。
 瞳を閉じた。開かれた窓から流れ込んでくるそよ風が優しく頬を撫でて、いい具合に眠気を誘った。気持ちよくなってきた頃、風に紛れて聞こえなかった別の音に気がついた。ひとつ感覚を失うと別の感覚が敏感になるというのは本当の話しらしい。耳を澄ませるとピアノの音だと分かった。この曲は知っている。ベートーベンの『月光』。

 夢を見た。
 満月の下、私はまだ冷たい風を浴びながら、ぼーっと立っている。ふと空を見上げると、煌めく星が雨のごとく降り出した。そっと手をのばすと星を手に取ることができた。星は歌っている。『月光』だ。そのメロディには悲しみが込められているような気もするが、実のところは、ベートーベンが恋人に贈った愛のメッセージなのだそうだ。星は歌い終わると、手の中で一層強く輝いてから、ぱりんと音を立て粉々に砕け散った。まるで「お前には愛をあげられないよ」とでもいうように…。辺りを見渡すと星があちらこちらで粉砕していた。
 殺風景な夜道、再び満月と私だけになって、風が唯一の音となった。どこもかしこも、なんてつまらない世界だろう。私は無意識のうちに口を動かす。
「ねえ、あなたもうんざりなんでしょ」
 月は何も応えてくれなかった。その代わりなのか、ものすごく強い風が吹いて、私の足は地面から浮き上がった。私の身体はどんどん空高く昇っていく。もっと、もっと、高く。
 気が付けば宇宙だった。一見丸くて青い地球は周りにあるどの星よりも美しいが、私にはどす黒い空気が充満しているような気がしていた。帰りたいとは思わない。むしろ、別の惑星で暮らせたら、と思う。だけど、リアリストは知っている。あそこに帰らなくてはならない。なぜなら、全ての人間が広大すぎる宇宙にあるたったひとつの小さな星でしか暮らせないように仕組まれている。その仕組みを知った者が万が一死を望んでも死を恐れるように仕組まれている。――誰が仕組んだのかなんて知らないけれど。
 なんとなく振り返ると、そこには月があった。私は月を睨みながら言った。
「狂ってるって思う?でもね、みんな狂ってる。もはや何が一番狂ってるかなんて分からないくらいにね」
 月は何も応えてくれなかった。

 目を覚ますと、誰もいない教室には青白い月光が満ちていた。はっとして、携帯の電源を入れた。『20:05』と表示されている。もう『月光』は流れていない。開けっ放しの窓からは強風特有の威嚇のような唸り声が聞こえてくるばかりだ。
 嫌な、夢だった。
 ゆっくりと席から立ち上がり、「この学校は警備薄いんだ」とひとりごちてから、とうとう教室を出た。


≪本当は分かってる≫

後書き…
連載がんばる!

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