「ゲンマさん、今日はこの辺で野営にしますか?」
「あ…、あぁ。そうだな。」
シカマルに話しかけられて、漸く意識が別の場所に飛んでいたことに気付く。
任務中に別のことを考えるなんて、上忍のすることじゃない。
俺が死ぬなら絶対にこの時期だろうな、と頭の中で苦笑した。
「この風向きだと、こっちのルートの方が良くないっすか?
あっちもだいぶ足止め食らったみたいだし、追いつけると思いますよ。
キバの鼻もありますし、こっちが風下ならかなり早く気づけるんじゃないっすかね?」
「そうだな…、迂回も楽そうだしそうするか。」
ペンライトの小さな明かりの下、作戦を練る。
シカマルの意見は効率的かつ適切で、マンセルを組むのは初めてじゃないがいつもこいつの頭の良さには驚かされた。
「お前諜報部に志願しねぇか?絶対向いてると思うぜ?」
「そうっすか?…まぁ頭使うのは嫌いじゃないっすけどね。」
俺は意外と現場の方が好きなんすよね、と言ったシカマルの横顔がなんだか頼もしくて嬉しくなる。
中忍試験の時からそう時間も経っていない気がしていたが、若い奴らの成長は早いものだ。
揺ぎ無く時は流れ、物事の形を変えていく。
止まってしまった俺の時間も、いつか動き出す時がやって来るのだろうか。
そう考えてすぐに自嘲的な笑いが込み上げる。
あり得ない。
いくら物理的な変化が自分自身に訪れようと、俺の時間は名無しが死んだ時から動かない。
今までずっとそうだったんだ。きっとこれからも変わることはない。
頭を過る茶色と焦げた匂いに、胸の奥がちりっと痛む。
それでいいんだ、俺は。
「面倒くさいが口癖じゃ諜報部なんて無理だろ。シカマル根気なさそうだもんな!」
「ワンッ!!」
「うるせえよ、キバ。つか赤丸吠えるんじゃねぇ、敵さんにばれたらどうすんだ!」
じゃれ合う若き忍を微笑ましい気持ちで見ながら、
こいつらには俺みたいな思いはしてもらいたくねぇな、なんて柄にも無く思う。
「おら、さっさと飯食って休むぞ。最初は俺が見張るからお前ら先休め。」
「「はい。」」
鞄から兵糧丸を取り出し、口に含もうとした時にシカマルが俺の名前を呼んだ。
「ゲンマさん、俺ちょっと多めに弁当持ってきたんで一緒にどうすか?」
いつも兵糧丸じゃ味気ないでしょう、と目の前に広げられていく弁当。
握り飯と簡単なおかずが詰まった箱は、温かい家庭を思わせるものだった。
「母ちゃんに作りすぎたって持たされたんすよ、まぁ協力してください。」
にかっと笑ったシカマルが最後に開けたタッパー。
その中いっぱいに詰まっていた山吹色を見て、心臓がドクンと脈打つ。
「っ………。」
それを見たのは本当に久しぶりだった。
名無しが死んだ直後、何気なく買った惣菜の中に入っていたカボチャの煮物を食べたが、
飲み込むことができずに吐き出した。
恐らく「あれ以来」なのだと思う。
意識していなかったが、見ることさえ避けていたのかもしれない。
つい今まであいつの事を考えていたせいなのか、自分でも戸惑う程狼狽える。
隠すこともできなかった動揺を、敏感なシカマルは感じ取ったらしく動きを止めた。
少しの間一考して、また俺の前にタッパーを差し出す。
食えるわけが無い。
当たり前にそう思って断ろうとしたが、鼻をくすぐる匂いに声が喉の奥へと引っ込んだ。
自分に訪れた感覚に驚く。
甘辛い煮付けの香りを、「うまそう」と感じている自分が信じられなかった。
恐怖と焦燥が渦を巻くように俺を襲う。
カチカチと咥えた千本が鳴る音で、自分が震えているのだと知った。
これを食ってしまったらもう戻れない。
そんな漠然とした不安に支配されながら、一体どこに戻れなくなるというのか、何故そんなふうに感じるのか自分でも分からずにいる。
温かい家庭料理。カボチャの煮物。香り。
その何もかもが名無しを思い出させて苦しかった。
―――――思い出させる……?
あぁ。
そうか。
俺は。
タッパーの中からひとつ、カボチャを箸で取る。
ゆっくりした動作で口に運べば、柔らかく煮付けられたそれは、冷たいはずなのにほくほくとした温かさを舌へと伝えた。
カボチャの甘さと醤油の塩気が食欲を刺激して、嚥下してすぐまたひとつ口に運ぶ。
二つ目のカボチャをかみ締めながら、零れた小さな溜息と、涙。
(あいつが作ったやつは、もっと塩気が濃かったな……。)
そんなことを冷静に思った。
名無しの味付けと違ったこの味が、より一層あいつの味を鮮明に思い出させる。
俺は名無しが作ったカボチャの煮物の味を覚えていた。
極自然に俺の中に浮かぶ言葉に心が軋んだ様な音を立てる。
いつからなのだろうか、もうずっと前からなのかもしれない。
俺の中で名無しは、「思い出」という存在になっていた。
あいつが死んでから食えなくなってしまったはずの好物。
あの時食えなかったそれを、俺はまた食えるようになっていた。
名無しを失った時の喪失感も虚無感も、千切れそうだった胸の痛みも。
部屋の中に残ったあいつの匂いで眠れなかった夜も。
ふとした時に耳鳴りのように聞こえた鈴の音みたいな笑い声も。
少しずつだが確実に、俺は忘れていっている。
時間は止まってなんかいなかった。
ただ、俺が止まっていてほしいと願っていただけのこと。
否応無く流れる時の中で生きていくうちに、名無しを忘れてしまうことが恐ろしかった。
忘れるのが怖くて、怖くて、だから時が止まればいいんだと思った。
あいつを忘れさえしなければずっと一緒にいられると思った。
俺はただ、どんな形でも名無しと共に生きて行きたかったんだ。
シカマルとキバが俺に気を使ってこちらを見ないようにしている。
その仕草が不自然過ぎて笑えたが、俺は厚意に甘えて泣き続けた。
俺の意思なんて関係なく溢れる涙が、かみ締めているカボチャに塩気を加えて益々あいつを思い出す。
『カボチャの煮物ぉ?おじいちゃんみたいな好みね。』
突然鮮やかに蘇った記憶に、電気が走った様に身体が震えた。
まるで耳元で名無しに言われたかと思う程はっきり聞こえた声。
『たまにはデートしようよー、いつもお家ばっかりなんだもん。』
ふてくされた顔。
『ちょっと、抱きつくのはいいけど千本危ないから!』
顔を赤くしながら慌てた顔。
『どうしてそんな怪我…、黙ってたら分からないじゃない…。』
心配して悲しそうな顔。
『ゲンマ、おかえり。』
俺を迎える花みたいな笑顔。
涙が溢れる度に、名無しの笑顔の、声の、感触の記憶が一緒に溢れてくる。
あいつが死んでから、こんな風に思い出すことなんて一度も無かった。
思い出すのはあの夜の出来事と、煮詰まりすぎた茶色と焦げた匂いだけだったから。
「は…はははっ……。」
乾いた笑いが森に響く。滑稽だと思った。
あいつを忘れていく自分を認めた途端に、名無しは俺の元に戻ってきたんだ。
カボチャを口に運んで目を閉じれば浮かぶいくつもの名無し。
名無しは、俺の記憶の中でこんなにも鮮明に生きていた。
うまいな。そうぽつりと呟けば、母ちゃんに伝えておきますよとシカマルが返す。
溢れ続けた涙も、時が経つと共に乾いていった。
あいつの記憶もこうして時間と共に薄れてしまうのだろうと思うと、やはり胸が痛い。
でも、もう時が止まってほしいとは思わなかった。
誰よりも好きだった。
この世で一番愛していた。
どんなに時が経とうと、これだけは忘れない。
それで良かったんだ。
もう何度目の10月31日だろうか。
あれから。
今年もまた異国の祭りに街が浮かれてオレンジ色が溢れる。
賑やかな音楽とカラフルな飾り付けが目に飛び込むこの季節。
流動する時の中、
俺はまたカボチャの煮つけが好物になった。