いつまでもこうしてシャワーを浴びててもしょうがない。
結局このキスマークの理由を何も思い出せない俺は、ただ名無しちゃんと正直に、誠実に向き合うことしかできないのだから。
仙術で消してしまおうかとも考えたが、証拠隠滅を計ったのかと誤解を招く恐れがある。
(…何を言われるだろう。)
はっきり言って全く予想もつかない。
泣いたり怒ったりするならまだ良い。
罵って責めてくれたなら、まだ希望があるから。
一番怖いのは、冷静に別れを告げられること。
それは、もう彼女の中で終わってしまったということだから。
心臓の音がやたら煩い。
Sクラス任務だってこんな緊張はしない。
はぁ、と大きく溜め息を吐いて、リビングの扉を開いた。
名無しちゃんの姿は台所にあって、お昼ご飯を作っているようだった。
とりあえずまだこの家に居てくれたことに安堵する。
立ち込める鰹だしの香り。
いつか俺が好きだと言ったしめじの蕎麦を作っているのだろう。
名無しちゃんは俺の好みをよく覚えていてくれて、俺が食事を褒めるといつも嬉しそうに笑う。
そんな些細な出来事に、向けられた愛情を感じるんだ。
(どうしよう、泣けてきた…。)
愛おしくて堪らない。
今すぐ掻き抱いてめちゃくちゃに愛したい。
でも出来ない。
気配をわざと殺さずにリビングへ来た俺。
名無しちゃんは俺の気配に気付いているのに、俺を見ようとしなかった。
彼女は、きっと全部知っている。
脈が乱れて呼吸が浅くなっていく。
少しでも気を抜くと過呼吸に陥りそうだ。
向き合うと決めたのだから、まず何があったのかを確かめなければ謝ることもできない。
「……名無し、ちゃん。」
聞こえるか聞こえないかくらいの小さな呼びかけ。
その声に、彼女の肩がぴくりと動いた。
「あ…、え、と。もうすぐお昼できますから…。」
名無しちゃんはグツグツと沸騰する鍋に向かったまま、俺の方を振り返ることもせずそう言った。
「……名無しちゃん…、俺、昨日……………。」
「…………………。」
部屋に響くのは蕎麦を茹でる音だけ。
俺の言葉の続きを待っているのか、名無しちゃんの肩は小さく震えていた。
もう決定的だ。
唯一無二である名無しちゃんという存在を、俺は裏切ってしまったんだ。
「ごめんっ…、名無しちゃん、ごめん!!俺、本当にごめん―…っ!」
口をついて出たのは、なりふり構わずみっともない程必死な謝罪の言葉。
そのあまりの剣幕に驚いたように、彼女はやっと俺を見てくれた。
「あ、謝らないでください、カカシさんにもお付き合いがあるでしょうし…。
ここはカカシさんの家でもありますから、そんな、謝る必要なんて無いです。」
「……………え?」
名無しちゃんが何を言うのか予想がつかなかったが、この答えは本当に予想外だった。
彼女は怒っていない。
怒っていないどころか、浮気を認めて許すような発言をした。
「え、ちょっと待って…。俺、まさか昨日この家に連れて帰って来た、の?」
「あ…、はい。1時過ぎくらいに…。カカシさん、覚えてないんですか?」
「う…………。」
何てことだ。
よりによって恋人と暮らすこの家に、しかも名無しちゃんがここにいるというに俺は堂々と他の女を連れ込んだのか。
それが事実ならば、何故名無しちゃんはこんなにも冷静なのだろう。
俺に別れを切り出す様子もなく、浮気を容認するような態度。
理解ができない。
「え、と......名無しちゃん、怒ってないの…?」
怖ず怖ずと聞けば、ニコッと可愛く笑って言った。
「はい。だって、私も同じコトするかもしれませんし。」
…………………。
(同じコト……?)
これまた堂々とした浮気宣言に、一瞬唖然としてしまう。
混乱し過ぎて逆に落ち着いてきていた頭に、一気に血が上った。
「――っだ、駄目に決まってるでショ!?」
「えっ、えっ???」
心の底から意外、という表情を見せる彼女。
戸惑うのはこっちだ。
まさかそんな考えでいたとは思わなかった。
「言える立場じゃないって分かってるけど、俺は絶対に耐えられないからね!俺以外の男となんて、浮気なんて絶対に駄目だからね!!」
細い腕をしっかり掴んでぐっと詰め寄ると、益々ポカンとした表情になる名無しちゃん。
「…あの、何の話し、ですか?」
「へ??」
クリクリとした目で、小首を傾げた彼女。
その可愛さで咄嗟に怯むが、ここで退いてはいけない。
「だから、名無しちゃんが浮気なんて俺は耐えられないって……。
俺が言えることじゃない、けど……。」
「言えることじゃないって、…カカシさん、まさか浮気したんですか?」
…………あれ?
今度は俺がポカンとする番で、名無しちゃんはそんな俺を睨みつける。
どういう事だ?
今まで何について話していたんだ?
「カカシさんっ!!」
「――っはい!」
「浮気したんですかって聞いてるんです!!」
「わ、わかりません!浮気した自覚は無いんだけど、きっ、キ、キスマークがっ…!」
怒る名無しちゃんの前で、俺はまるで叱られる犬の様。
「キスマーク…って……。」
彼女の顔が見れずに、気をつけをして俯いたまま俺は次の言葉を待つ。
「―――ぷっ…。」
(ぷ?)
「あはははははっ!」
せきを切ったように笑う名無しちゃんを、訳が解らない俺はただ見つめる。
「だから口布してるんですね、お、お風呂上がりなのにっ!キスマーク隠す為に!!あははっ、ダメだ、お腹痛い!」
「あ、あの………?」
やめて、来ないでと笑いこける名無しちゃん。
もう意味が分からない。
彼女お腹を抱えて笑う間、俺はただオロオロと見守ることしかできなかった。
ひとしきり笑った彼女は、笑いすぎて出た涙を拭きながら俺にお茶を出す。
熱いお茶を啜り、ふう、と一息ついた名無しちゃんは昨日の出来事を話し始める。
「カカシさん、昨晩のことはどこまで覚えてるんですか?」
「情けないけど、飲み屋の途中くらいまで、かな。」
そうですかー、と微笑む彼女は、何故か楽しそうに見える。
「昨日の夜、カカシさんはコテツさんとライドウさんを連れて帰って来たんですよ。押しかけられたって表現の方が近いかもしれないですけど。」
「え、じゃあ中忍のくの一とは一緒じゃなかったってこと??」
「はい。誘われたけどカカシさんが断ったんだって、ライドウさんが言ってました。」
良かった。
意識が無くても、俺は名無しちゃんを裏切るようなことはしなかったんだ。
心底安心した…、がしかし。
「…てことは、このキスマークは名無しちゃんが??」
「まさか!違いますよ!」
名無しちゃんは焦ったように否定して、そしてまた込み上げる笑いを堪える様に口元を手で抑える。
「そのキスマークをつけたのはコテツさんです。」
…………………………。
「はぁっ!!??」
身を乗り出して驚く俺を見て、名無しちゃんはまた笑い転げた。
彼女の話では、くの一の誘いを断った俺にコテツが怒って、夜中に押しかけるという事態になったらしい。
(名無しちゃんが言ってた、付き合いだからとか自分も同じ事するかもとか、そういうコトね。やっと理解した。)
また延々と過去の失恋武勇伝を話しはじめたコテツは、俺にテクニックを伝授してくれとか何とか言い出したという。
何がいけないんだー、と半分泣きわめくようなコテツに俺は襲われた、らしい。
「カカシさんすごく酔ってて、体の自由が利かなかったみたいで…。
ぷっ......、コテツさんに襲われながら、やめろーっ、やめてくれーって叫んでました。」
耐え切れずに小さな笑いをこぼす名無しちゃん。
(さっき後ろ姿が震えてたのは、単に笑いを堪えてただけってことか。)
とりあえず後でコテツを殴る、そう心に誓って少し冷めたお茶を一口飲んだ。
要するに全部俺の取り越し苦労。
時々思い出したようにクスクス笑う名無しちゃんの笑顔、この笑顔がまだ俺の傍に在ってくれて本当に良かった。
二日酔いもすっかり醒めた昼下がり、恋人と過ごすいつもの穏やかな時間。
俺にとってかけがえの無い大切な時間だ。
ソファーに座る俺の膝に、床に座った名無しちゃんが頭をちょこんとのせる。
サラサラとした髪をすくように撫でれば、気持ち良さそうに目を細める彼女。
安心しきったその表情に苦笑を漏らし、ちょっと意地悪な質問を投げ掛ける。
「ねぇ、もし俺が本当に浮気したらどうする?」
君はさっきみたいに俺を怒って、そして別れを告げるのだろうか。
「うーん……。」
眉間にシワを寄せて悩み出す名無しちゃん。
戯れにしただけの質問にも真剣に答える。
こういう真面目な所も彼女の魅力だと思う。
「すっごく怒ると思います。」
「うん。」
「もしかしたら叩いてしまうかもしれないです。」
「うん。」
「……でも、私からは別れないと思う………。」
ああ、これだから俺は君から離れられないんだ。
俺が欲しかった言葉を、聞きたかった答えを、君は惜し気もなく与えてくれるから。
愛おしい。
突き動かされる感情のまま、小さな身体を抱きしめた。
「名無しちゃん、大好き。」
回した腕に力を込めてそう言えば、きっと君はまた欲しい言葉をくれるんだ。
これから先、どんなことが起こるのか分からなくても、例えば君が俺を裏切ったとしても、俺が君を想う気持ちは変わらない。
きっと変われない。
君が隣にいる穏やかな昼下がり。
恋人と過ごす甘い時間。
俺に甘えるように擦り寄る頭に、小さなキスを落とした。
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