あの日から、ぱったりと名無しは俺の部屋へ来なくなった。
時折待機所で見るあいつは元気そうだったし、
はっきりしない俺との関係に嫌気が指したのだろう、そう理解していた。
寂しくないとは言えないけれど、今までよく続いたものだと逆に感心する。
名無しは美人だし、忍としての才も長けている。
もっと早くに俺なんか捨ててしまえば良かったんだ。
あいつには幸せになって欲しい。
そう。
今日までは、確かにそう思っていた。
『カカシ!名無しが草隠れに長期任務で就くこと知ってた!?』
紅が血相を変えて俺の元に来たこの時までは……。
もう何時間走っているだろうか。足の感覚が麻痺している。
それでも俺は走った。
名無しが里を発ってもうすぐ半日。
紅からあいつに下された任務を聞いて、気付いたら俺は何もかもを放り出して走り出していた。
草隠れの里での任務。それは死の宣告と同意。
各国の犯罪者が集まるあの里は抜け忍達の巣窟であり、長年に渡りその国境線の警備を木の葉の忍が一任されてきた。
里が送る忍はどれも一流だったが、無事任期を終えて里へと帰ってきた者は未だ一人も居ないのが現実。
そんな任務に今度は名無しが就いたのだ。
名無し。
名無し。
「―――名無しっ…!」
木を蹴る足がふら付く。
呼吸が上がって思考が鈍る。
足の爪が剥がれて出血しているのが分かったが、俺はただ走り続けた。
本当はね、形にこだわってるのは俺の方。
お前を俺の恋人にしたくない。
お前を俺の特別にしたくない。
だって、きっと俺は失くすでしょ?
お前を特別にしてしまったら、きっと俺はお前を失ってしまう。
今まで守りたくても守れなかった特別な人達。
名無し、お前だけはその中の一人にしたくないんだよ。
「名無しっっ!!!!」
数百メートル先に見えた小さな後姿。
その背中に向かって喉が潰れる程に叫んだ。
「って、え!?カカシ!??何してるのこんな所で!!?」
少し色素の薄い瞳をいっぱいに開いて、名無しは驚きを隠すことも無く俺を見つめる。
もう二度と見られないかと思ったその顔に、熱い想いが込み上げた。
その想いは怒りとなる。
「なんで黙って行くんだよ!!何考えてるのお前!どうして引き受けたりしたの!!?もう生きて帰って来れないって分かってたでしょっ!!??」
感情のままに怒鳴る俺に、名無しはむっと頬を膨らませて俺を睨みつける。
「生きて帰れないって決め付けないでよ…。」
「俺に一言も相談なしで、恋人じゃないと言えないことってコレ!?バカじゃないの??意味わかんないよ!!」
「違うってば。もー…、ちょっと落ち着いてよカカシ……。」
どうどう、と俺を宥めるようにして鞄から出した水筒を俺に渡す名無し。
呑気に水分取ってる場合じゃないだろ、と思いつつも乾ききった喉がそれを欲した。
ぐいっと水を煽って、やっとまともに呼吸をする。
「…一緒に里に帰るよ。」
「帰らないよ、任務だもん。」
「三代目には俺が交渉するから。」
「変わりに誰かが就くだけじゃない。そんな意味無いことしないでよ。」
「お前が行くことないでしょ、無理だよ名無しには。」
「……わざわざこんな所にまで喧嘩売りに来たの?」
平行線の会話に苛立ちが募る。
なんでこいつはこんなに頑固なんだ。昔から何も変わってない。
「……お前死ぬよ?」
「かもね。でも里の為だよ。私は忍だもん。カカシも同じでしょ?」
そんな正論で俺を諭そうとしないで。
どうしたらお前は留まるのか、俺の中にはもうそれしかない。
お前が特別じゃないなんて、ちゃんちゃら可笑しい現実逃避以外の何物でもないよ。
馬鹿なのは俺。
まだ俺は、お前に何も伝えてない…。
「……名無し、俺は――…。」
「帰って、カカシ。…ごめんね。私は絶対に死なないからって言ってあげられたら良いんだけどね…。」
俺の言葉を遮ってそう言った名無しは、力無く立ち尽くす俺の手から水筒を取って自分の鞄へとしまう。
「……来てくれてありがとう。」
そんな泣きそうな顔でお礼なんて言うな。
行くな。なんで言葉にならないんだよ。
なんで俺は立ち尽くすことしかできないんだよ。
止められない。
行ってしまう。
もう逢えなくなってしまう。
まだ、お前に何も伝えられていないのに。
ゆっくりと俺に背を向けて、再び歩き出す小さな体がぼやりと霞む。
「……恋人じゃないと言えないことって、何…?」
ほとんど独り言のように零れ落ちた言葉。
消えそうに放たれたその言葉に、名無しは羽みたいにふわりと振り返って笑った。
「別れよう?私を待たないで、カカシ。幸せになってね。」
嘘みたいに綺麗な笑顔で、嘘みたいに柔らかい声で、嘘みたいに残酷な言葉。
あぁ、お前は全部解っていたんだね。
俺の迷いも、想いも、何もかも全てを。
頬を伝った滴を拭うこともせず顔を上げた俺に、ね、恋人じゃないと言えないでしょう?そう言って、お前は少し困った様に笑った。
俺が見た、名無しの最後の笑顔だった。
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