プロローグ
救ってやって下さい
彼を
哀しみから
憤りから
戸惑いから
募り募った苦しみから生まれた 途方もない
闇から
与えてやって下さい
彼に
優しさを
温もりを
愛を
どうか
救ってやって下さい
彼を
―――――――――
夢を見た。
温かくて、柔らかくて、真っ白な世界に一人漂っている。
まるで大きなお風呂の中にふよふよと浮いているようで、心地が好い夢。
このままこの世界に溶け込んでしまえたら、そう思って眼を閉じると、聴こえてくる声。
その声はどこまでも穏やかで、緩やかに流れる川のせせらぎの様。
優しくて、どこか切ない。
「……また、同じ夢…。」
ゆっくりと覚醒する意識の中で、今見たばかりの夢を思う。
ここ数日、ほとんど毎日といっていい程同じ夢を見る。
しかし何度同じ夢を見ても、その内容はぼんやりとしか覚えていない。
誰かが私に何かを言っている、という漠然とした記憶だけで、何を言っていたのかはどうしても思い出せなかった。
「なんか、不思議な感覚なんだよね。」
誰に話しかけるでもなく、ぽつりと呟いて窓の外を眺める。
枕元でカチカチと規則正しい音を立てる目覚まし時計。
少しだけ開いた窓からは、夜明け前のひんやりした風が入って、薄緑のカーテンを揺らす。
「まだ4時前じゃない…。」
ふぅ、と息を吐いて、枕に顔を埋めた。
まだ眠気の残る身体は、再び眠りの世界へと飲み込まれて行く。
落ちていく意識の端で思う。
また、あの夢を見るのだろうと。
―――――――――
「三時、か………。」
昼前には帰還できる筈だったBクラス任務は思いの外手間取り、里に戻って報告書の提出を済ませた時には、もうとうに日付を越えていた。
ジャリ、と砂を踏み付ける度に落ちる、赤い滴。
自分のものではない。
帰り途中で受けた、賞金首狙いの盗賊による奇襲。
さほど難しくもないBクラスの任務に手間取った理由だった。
アパートに戻り、のろのろとした動作でポケットから鍵を取り出し玄関を開ける。
三日程留守にしていたせいで、家の中の空気は淀んでいた。
風を通さない室内に入ると、自分の身体にこびりついた火薬と、血特有の鉄錆みたいな臭いが鼻につく。
早く洗い流してしまいたくて、脱ぎ捨てたサンダルもそのままに直接風呂場へと向かった。
熱いシャワーを頭から浴びると、先刻まで行われていた殺し合いによる妙な高揚感が、波が引く様に消えていく。
風呂から上がり、頭を拭きながら今日まだ何も口にしていないことに気付いたが、今から食事を摂る気にもなれずに、冷えたミネラルウォーターで空腹をごまかすことにした。
スウェットの下だけ履いて、濡れた髪を乾かすこともせずにベッドへ倒れ込む。
瞼を閉じれば蓄積した疲労ですぐに眠気に襲われる。
しかし頭の中はどこか冴えてしまって眠れない、というよりきっと意識的に眠気を拒否しているのだ。
殺した夜は眠ることを躊躇う。
人を殺めた後、良い夢をみてぐっすり眠れるなんてあるわけがない。
喉元に突き付けたクナイに、己の死を悟り恐怖に見開かれた瞳が映る。
肉を裂く感覚は何時までもこの手に残り、人間の事切れる寸前の小さい悲鳴のような長い呼吸音は、何時までも繰り返しこの耳に響く。
耳鳴りのように聞こえたそれに、思わず耳を塞いだ。
耳を塞いだまま、身体を赤子のように丸めて深く呼吸をする。
考えるな。
考えるな。
考えるな。
眼をぎゅっと瞑り、暗闇の中呪文のように呟く。
数分後、意識を手放した。
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