もしかしたら、私は今夢を見ているのかもしれない。
廊下に響くシャワーの音が、現実のそれとは思えないくらいとても遠くに感じていたから。
けれど足元に点々と残る血の跡が、これが夢では無いのだと私に伝える。
(カカシさん……)
『……雅美ちゃんが汚れちゃうでしょ』
掠れた声を搾り出すように言ったカカシさんの表情は酷く苦しそうで、辛そうで。怒鳴られたのは私なのに、怒鳴った彼のほうが泣き出しそうな顔をしていた。
(カカシさん……カカシさん…………)
いつも呆れるほど優しくて穏やかな彼が見せた、荒々しく冷たい一面。
凄く怖かった。息をすることすら忘れるくらいの衝撃だった。けれど同時に初めてカカシさんの内側を見た気がした。
これまで一緒に暮らしていても知ることの無かった、彼の【感情】に触れたのだと。
汚れちゃうだなんて、どんな気持ちで言ったの?
自分はそんなに血に塗れた姿で、私の手に怯えるみたいに怒鳴って。
自分の心臓の音が体中に響く。色んな感情が渦を巻いて溢れる。
今までこんなに他人に心を揺さぶられることなどあっただろうか。カカシさんの態度や言葉ひとつひとつに、面白いほど振り回される。
優しくされればくすぐったいような喜びを覚えて、冷たくされれば身を切られるような痛みを感じる。
(私って、本当に馬鹿だな……)
――自分の気持ちなんて、考える余地など無いくらいにただひとつしかなかったんだ。
ぐっと手の平を握り締めて、俯いたままだった顔を上げる。暗闇に慣れた目で廊下をズカズカと進み自分の部屋のドアを勢いよく開けた。
部屋の中ではパックンがお行儀良くこちらを向いて座っていて。私はそのままの勢いで彼の前に正座し、ぷにっとした両前脚を持って大きく、大きく息を吸った。
「私カカシさんの全部を知りたい!本当の顔も嘘の顔も、表の顔も裏の顔も、全部を私に教えて欲しい!それって……それって……!」
息継ぎも忘れたかのように捲し立てる私の言葉の続きを、パックンが引き継ぐ。
「カカシを好いているということだろうな」
私の中の何かが音を立てて弾けた。
留まること無く溢れてくる感情に、知らず知らずにこんなにも気持ちが膨らんでしまっていたのだと初めて気付く自分自身に呆れる。
架空の人物に想いを寄せるなんて。
どうせ叶うわけが無いし、叶ったところでその先に待つものは別れでしかないのに。
そう自嘲してみても、気持ちを認めた今心は嘘みたいに晴れやかだった。
「手を離してもらっても良いか?」
「あ、ごめん……」
そっとパックンの手を離し、細く長い溜息をつく。
クリアになった視界と思考で、口元に浮かぶのは柔らかい笑みだった。
カカシさんが好き。
私はカカシさんが好きなんだ。
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