due




はっきりとした言葉の応酬もなく意気投合した二人。


それから、どれほどの時間が過ぎていったのだろうか。

すでに焼き上がり、新メニューの候補に加わった抹茶のパウンドケーキ。エスプレッソ専用のカップを煽った彼が、何度目かのおかわりを願い出ようとした、そのとき。



「あ、あの」


鈴を転がすような声音が、微かではあるが確かに三半規管を貫いた。

たった一声、されど一声。自身の心をこんなにも奮い起こす人物は一人しかいない。口端を静かに上げた男は、席を立ちながらおもむろにそちらへ目線を移して――



「ッ!」


「お待たせしてごめんなさい。久しぶりだったので……手間取ってしまいました」



息をのんだ。


ちょこちょこと、普段以上に小さな歩幅で近付いてくる名前の足にはシックな草履が。

店の明かりに照らし出される、一纏めに高く結われた黒髪。着物が大半の肌を覆っている分、際立つ首元の白さ。ふくら雀結びされた橙の帯。自己を主張しすぎているわけでも、服に着られているわけでもない。控えめな美しさが、そこには存在した。


この衝撃と感動をどう表現すべきなのだろう。そんな硬直した状態のリゾットに対して、彼の目下に寄り添った彼女は心配そうに顔を覗き込んでくるではないか。



「……どうかされましたか?」


「! すまない。……なんというか、見入ってしまった」


「っ////」



≪もっとよく見せてほしい≫。

ざわめく心中に従うままそう懇願すれば、恥ずかしそうに顔を赤らめた少女がその場で一周くるりと回る。


ドクドクと速度を増す鼓動。過ぎっては浸透していく情愛。なかなか落ち着くことのない胸の内を悟られぬよう、男は他の関心事について尋ねることにした。



「と……ところで名前。先程これを≪フリソデ≫と言っていたが、それはキモノの一種になるのか?」


「あ、はい! 留袖だったり、花嫁衣裳で用いられる打掛だったり……いろいろ種類があるんです。あと振袖の中でも袖の長さで区別されてて、これは中振袖(約95〜99センチ)だと思います」


「ふむ、なかなか興味深いな」


「! ……えへへ」



一方、漆黒の髪を小さく揺らしつつ微笑をこぼした名前も、やはり恋人が母国に関して興味を示してくれると、心がますます晴れやかになるもので。

互いの双眸をかち合わせ、甘い雰囲気を漂わせる二人。


そんな彼らを見て優しげに目を細めた店長だったが、さすがに客も注目している手前、放っておくわけにもいかない。「ほらほら! イチャイチャするのは家に帰ってから!」と促す。


男の指示に、一切顔色を変えない青年と、見る見るうちに頬を羞恥に染めた少女。それぞれ反応を示した両者は、しんしんと雪が降る空の下へ身を投じることにした。









数分後。服やらショルダーバッグやら詰めた袋を――自分のモノなのだから自分が持つと言って聞かない名前を、あっという間に説き伏せるという事態を経て――左手に持ったリゾットは不満げな彼女と並んで道を進む。

そしてふと彼が、黒目がちの瞳を右隣へ向けたときだった。



「……(なんだ? 何かが、おかしい)」



相も変わらず穏やかな美しさを湛えた振袖姿の少女。ところが目を凝らせば凝らすほど、拭いきれない≪ある違和感≫に首をかしげる。


「? リゾットさん?」



そう。修道服越しではわかりにくいものの、実は豊満であるはずの胸部が、今ほぼ≪平ら≫なのだ。

頭上に浮かぶクエスチョンマーク。ゆっくりと男の視線の先を辿って――ハッとした名前は、そこを隠すように慌てて両手を添えた。


じとり。気を許せる仲だからこその警戒を双眸に秘めながら、彼女は恥ずかしさゆえに下唇を噛む。



「着物で……む、胸が目立ってしまうのは不格好なので、タオルで押さえてるんです。日本では和装専用の下着も売ってたりするんですよ?」


「ほう、なるほど」



次の瞬間、脳内を支配したのはまさに納得の二文字。一度だけ目を瞬かせたリゾットが感慨深げに首を縦に振った。


――あの柔らかく大きな果実を、布の下へ押し込むのはかなり大変だったに違いない。

そんな的外れな感想を抱きつつ。


一方で、まさか恋人が思わぬことを考えているとは知る由もない少女は、静かに破顔する。



「(胸のことは別だけど、着物のこととかリゾットさんに興味を持ってもらえるのはやっぱり嬉しいな)……ふふ」


「どうした?」


「いえ、なんでもありませんっ」


微かに頭を振るった途端、おもむろにひそめられた眉。

なぜ隠すんだ。その疑問符に従うまま、彼は鮮やかな帯の前で重ねられた手を片方取ろうとした、が。



「!」


虹彩に映り込むのは楽しそうに笑う名前。表情に宿った、時折しか目にすることができない≪あどけなさ≫。


「――」



不思議だ。

胸の奥に、脳裏に刻み続けているはずの姿が、こんなにも新鮮に思えるのは。


いや、強いて言うならばただ1つだけ、はっきりとわかっていることがある。それは、



「名前」


「? どうか、しましたか?」


「……いや。なんでもない」



≪当たり前ではない日常≫。その中で新しい一面を見つけるたびに、自分はこうして彼女に心惹かれるのだろう。


――幸せを、ありがとう。


細く白い指先を己の右指に絡ませながら、音にしようとした一言を止めたのは、少女との淑やかな幸福を噛み締めているからか。

それとも、言葉を尽くしても足りない想いを伝えた瞬間、伏せ目がちではにかんだ名前が少しでも己のそばから離れてしまうことに怯えたからか。



「(ん?)」


手を繋いだことで俯きがちになる横顔。それを喜々として見つめていた男は、不意にいくつもの熱視線を感じ取った。


二人が歩く大きな道。その両端に点在したのは和装の物珍しさに湧く人々。着物という独特な姿を写真に収めようと、携帯を取り出している輩もちらほらいるではないか。おそらく再び降り出した淡雪が、さらに今の彼女を引き立たせているのだ。

当然、柔和を秘めた面持ちから一変、赤い眼を光らせたリゾットが苦々しく顔をしかめる。



「(まったく……この子は見せ物じゃあないぞ)」


「リゾットさん?」


「どうした?」


「いえ……」


刹那、少女を覆い隠すように一歩前へ出る、筋骨隆々とした身体。

思慕と焦燥ゆえに一喜一憂してしまう自分を少なからず嘲笑しつつも、名前に焦がれること、名前と日々を過ごすことはこんなにも幸せだ。


そして、駆り立てられた嫉妬心が編み出す1つの≪対策≫。

この子は怒るに違いない。だが好奇を孕んだ連中の網膜に、晴れ着を纏った恋人の姿を一秒でも長く焼き付けてしまう事態と比べれば、幾分かいい――そう決意した彼は、ゆっくりと彼女の耳元へ口を寄せた。



「すまない、名前。……抱き上げるからな」


「え? どういう――きゃっ!?」



わけもわからず首を傾けるが、言葉を紡ぎ終えるより先に横抱きされ、バタバタと動く両足。しかしさすがに着物で暴れるのは、と我に返り渋々大人しくなった少女。

もちろん、その隙をついて歩き始めた男に対してなす術もなく。あたふたと瞬きを繰り返すことしかできない。



「り、りりリゾットさん? あの、一体……」


「説明は後だ。このままアジトまで直行する。いたたまれないのなら、しばらく俯いておけ」


「……っ、はい」


思いがけず縮まった距離。自然と速くなっていく心音。


しばらく逡巡していたが、腹をくくったのか名前が厚い胸元へそっと顔を埋める。

当然リゾットは神妙な顔つきのまま、恋人のその小さな身動ぎに恋情を擽られていたのだが。









双方落ち着かない胸中もそこそこに、アジトへ帰宅した二人をリビングで迎えたのはホルマジオ、プロシュート、メローネの三人だった。



「なんだァ? ずいぶん早ェお帰りだな! まさかリーダー、名前と喧嘩でも……って、は?」


「ほーう、名前が着てんのはいわゆるキモノって奴だな。イイじゃあねえか。乱したくなる」


「ディ・モールト、ベネ! ジャポネーゼ最高ッ! ハァハァ、まさかずっと見たいと思ってたキモノ姿が今見れるなんて……! ねえ名前、オレが≪アクダイカン≫役するから君のその帯外させ――グエッ!」


「しばらく部屋にいる。何かあれば、この机にメモを残しておいてくれ」


「……ハン、そういうことかよ。ならオレァ≪出かけてくっか≫。さっさと防音対策してほしいモンだぜ」


「ったく、しょォがね〜なァ! 年始早々、可愛い娘ちゃんにあんま無理させんなよ?」



背中に突き刺すため息とからかい。色めき立つ彼らのこともなおざりに、淡々と部屋へ向かう男。


静かに置かれる、店長から貰った私服入りの袋。ようやく床に着いた草履。パタン、と音を立てて扉が閉まると同時に、言うまでもなく彼女は滑らかな肌を紅潮させながら彼に詰め寄る。



「リゾットさん。さっきはどうして突然……わ、私のことを、えとっ」


「……」


そわそわ。

妙に浮き足立つ少女。おそらく道中のことを思い出しているのだろう。


とはいえ、なぜか男は押し黙ったまま口を開こうとしない。


一体どういうことなのか。身長差ゆえにまさか自分が上目遣いになっているとも知らず、名前が再びリゾットを見上げた、次の瞬間。



「ん……っ」


女のくぐもった声と共に、間髪容れず奪われた唇。

驚きで瞠目する紅い双眸。いつの間にか捕らえられた躯体。空気を取り込もうとした瞬間を見計らって、ぬるりと侵入する赤い舌。


上顎、歯列の裏、舌下と口腔すべてを彼に貪られていく。



「ッ、名前」


「はぁっ、は、ぁ……ン、っふ……んんっ!」


「はッ……舌を出せ」


「っゃ、ぁ……あん、っは、っはぁ……ん……ふ、ぅっ……りぞ、とさ……!」



口端からどちらのモノかもわからない唾液を伝わらせつつ、もう限界だと必死に胸板を叩けば、窒息寸前の彼女を名残惜しそうに解放する大柄の男。


ぷつんと切れた二人の唇を繋ぐ銀の糸。それをぼうっと見つめる少女の相貌は、ひどく官能的で蕩けている。

薄紅色の下唇を優しく拭った親指の腹。上気した頬を満足げになぞる手の甲。

そして、恍惚を帯びた瞳を見下ろしたリゾットは、気付いていなかったかもしれないが――とおもむろに切り出した。



「帰宅中に、君の写真を撮ろうとしている奴らがいた」


「……はぁ、っは、ぁ……、え? しゃ、写真?」


「やはり気付いていなかったんだな?」


なぜ自分にレンズが向けられたのか、不思議で仕方がない。

だが、眼前で苦笑する彼に迷惑をかけてしまったのは確かだ――深紅の視線を彷徨わせてから、しゅんと意気消沈した名前が小さく首を縦に振る。



「はい。少し浮かれちゃってたみたい、です」


「……ふっ、久々にフリソデを着ることができて嬉しかったのか? 可愛いな、名前は」


「そ、それもありますけど……っ」


「ん?」










「リゾットさんが、日本にもっと興味を持ってくださったのが、嬉しかったんです」


「!」


鼓膜を揺さぶる、慎ましくも凛とした声色。

想像もしなかった本音に息をのみ、青年がじっと見据えると、彼女は眉尻を下げて恥じらうではないか。


容易く外れる――否、自ら外す理性の箍――きちんと整えられた服を着崩してしまわないよう注意を払いながら、男はもう一度少女を強く抱き寄せた。



「ひゃ! あの、離してくださ、っ」


「断る。……名前、もう一つ気になることがあるんだが」


「……?」


きょとん。なんでしょうと言いたげな名前の額に口付けを落として、微笑む。

次の瞬間、リゾットが低音で囁くのは、覚えたてのある単語。



「名前は≪ヒメハジメ≫を知っているか?」


「姫はじ……、えっ!?」


反芻して、驚愕。口をパクパクと金魚のごとく動かした彼女は、これでもかと言うほど狼狽えていた。



「ど、どこでその言葉を……!」


「……情報源については、公表を控えさせてもらう。だがこうして改めて見ると、せっかくのフリソデを≪乱しすぎて≫しまうのはもったいないな」


「〜〜っそういう問題じゃ――ぁ!?」


「む、下はこういった構成になっているのか」


まるで記者会見における応答のような言葉。

なぜ彼はそういう怪しい類のモノに敏感なのだ。見る見るうちに青ざめた少女は言わずもがな目を剥くが、華奢な肩には左腕がしっかり回され、抵抗する暇は与えてもらえない。


するり。着物と襦袢の奥からあらわになった、艶っぽい太腿。

おもむろにほくそ笑んだ男はそれをつ、といやらしく右手で撫で上げた。



「……イイな。裾から覗くこの太腿がまた艶やかだ」


「やだっ、リゾットさん……そ、な風になでな、っでくださ……ひゃんっ」


「ふ、本当に嫌なのか? にしても白い靴下、ではなくこの≪タビ≫とやらも可愛いんだが、構造がこれだけ複雑怪奇ならば――、なッ!?」



ピタリ

刹那、何かに気付いたのか、内腿へ忍ばせていた指先と身体を硬直させるリゾット。


その只事ではない様子に、生理的なナミダを目尻に滲ませたまま、名前はおずおずと恋人を仰ぎ見る。


「ん、っはぁ、はっ……リゾット、さん?」


「名前」











「君はなぜ、下着を履いているんだ」



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