uno

※連載「Uno croce nera...」の番外編
※連載ヒロインが着物を着るようです
※甘裏





事の始まりは、



「リゾットさん。私、新年の挨拶に行ってきますね」


という名前の言葉だった。

当然、珍しく私服姿でそう呟き、左肩から右腰に向かってショルダーバッグをかけながら微笑んだ彼女に、回転椅子ごと振り返ったリゾットは≪どういうことだ≫と黒目がちの瞳を見張るばかり。



「挨拶? 誰にだ」


「えと、司教様と店長さんです」


「(店長、といえばあの喫茶店の男性か。以前名前を店から連れ出したときは≪悪い人≫ではないと感じたが、またこの子がアルバイトに誘われれば、たまったものじゃあないな)……わかった、オレも行こう」


「えっ!? いいですよ、そんな……っリゾットさんお忙しいのに」



彼の机にずらりと並ぶ紙束、白く光るデスクトップ――仕事のことを考えてか、わたわたと両手を胸の前で振り遠慮を示す少女。

しかし、すでにコートを着始めた男がその言葉に対してすんなりと頷くわけがない。


一歩。瞬きを繰り返している名前のもとへ近付いて、おもむろに口角を上げる。



「ここにある書類は大方終えたところだ。それに、最近仕事の関係で君と出かけることができていなかった。……新年の挨拶と、久しぶりの≪デート≫を兼ねてはいけないだろうか」


「! ……ダメじゃない、です」



銀縁メガネを静かに外し、少女への愛しさを胸に柔らかく笑むリゾット。

照れ臭さと喜びで満たされる心。恋人の何気ない仕草に高鳴る胸の奥。それらに目敏く気付かれてしまわぬよう、少しだけ俯きつつ彼女は彼の左手へそっと自分の右手を重ねた。










「いつも感じるが、あの人は名前の保護者のようだな」


「ふふ、そうですね。10年以上お世話になっている方ですから。イタリア語を教えてくださったのも司教様なんです」



空からはらりと落ちては、アスファルトに染みていく粉雪。

本日の降雪確率、70パーセント。だが今は落ち着いているらしい。お馴染みの教会を後にした二人は、時折雪空を見上げながら言葉を交わしている。


そしてふと呟かれた、男が初めて耳にする情報。

確かに出逢った頃から名前が紡ぐ母国語は流暢だったが、それについて詳細を尋ねたことはなく――リゾットは深い色の双眸をわずかに驚きで揺らした。



「そうだったのか」


「はい。最初は本当に≪ciao≫と≪grazie≫しか言えなくて、しかもその二つすらたどたどしかったので、今思い出しても恥ずかしいです」


「……たどたどしく話す名前か。それはそれで可愛らしいな」


「な!? 〜〜どうしてそうなるんですかっ!」



ぽかり。恥ずかしさゆえか頬をほんのり朱に染めた彼女に殴られる左腕の外側、いわゆる上腕三頭筋。

その行動すら可愛いと胸中が沸き立つが、それを打ち明ければ怒られることは必至なので、彼もさすがに口を噤んだ。






そうこうしている間に、第2の目的地に辿り着いたらしい。恋人と目を合わせてから、少女は慣れた様子でドアノブを回す。



「こんにちは」


「いらっしゃい。……って、名前ちゃんじゃないか!」


「店長さん、お久しぶりです。それと、あけましておめでとうございます!」



2、3人いる顔なじみの客に次々とコーヒーを運んでいた店長。そんな彼のそばへたったっと駆け寄り、元気な挨拶と共に喜々として頭を下げる名前。


彼女に続いて足を踏み入れた男は、握り締めていた右手が離れてしまったことに少なからず寂しさを覚えつつも、終始無言でその華奢な背中を見つめていた。


一方、思わぬ来店に濡れた手をエプロンで拭いた店長は、深く皺が刻まれた目尻を下げるばかり。

数ヶ月ではあったが、自身の小さな店で日々賢明に働いてくれたこの日本人の少女を、彼は娘のように可愛がっているのだ。



「いやー、わざわざありがとうね。それで名前ちゃんの後ろにいるのは……」


「……」


「えーっと。あ、思い出した! あんたはあのときの!」


「あのときは失礼した」



記憶に呼び起こされた、名前を宇宙人のように両側から挟んで連行した銀色と金色。当時は鋭い視線に≪殺されるのでは≫と危ぶむほど肝が冷えたが、案外この銀色は、人見知りなのかもしれない。


彼女が背後の彼に対して微笑みかけている姿を観察すれば、なぜか飼い主と警戒心の強い大型犬が浮かぶ。

一体どういう関係なのか。ほんのちょっぴり親心を擽られた男は、こっそり聞いてみることにした。



「名前ちゃん、この人ボディーガード?」


「え? あっ、この方は……その」



私の恋人、です――しばらく間を置いて、紡がれた小さな声。

おそらく後ろで神妙な顔つきをしている張本人の耳には届いていないのだろう。少女の赤らんだ耳を一瞥して、店長は満面の笑みを見せる。



「はは、そうかそうか! そういう話聞いてなかったから、おじさん安心したよ」


「/////」


「そうそう、名前ちゃん。来てくれたついでで悪いんだけど、ちょっと新しいメニューの相談に乗ってくれるかい」


「? はい」



突如放たれた単語。

それに首をかしげながら、彼に促され名前はリゾットと共にカウンターの席へ着いた。


すると、瞬く間に机の上に広げられるレシピの数々。

店長曰く、メニューの一環として創作和食を出したいのだという。



「あの、店長さん。どうして和食を……?」


「前、名前ちゃんが≪オムスビ≫握ってくれただろう? あれが美味しくてね。オムスビ以外にも何かいい料理ないかな」



≪そういえば≫。小首をかしげることで、カラスの濡れ羽色と呼ぶべき髪をふわりと揺らした彼女に向かって、投げかけられるのはお茶目なウィンク。

それと同時に、恋人の眉間にはっきりと増えるシワ。


まさか隣の彼の胸中に嵐が巻き起こり始めていることなど露知らず、黙々と考え込んでいた少女は、しばらくしてある提案を口にする。



「えっと、それならまずはお菓子とか……」


「それってジャッポーネの≪カシワモチ≫とか≪オハギ≫とかかい?」


「いえ。和菓子に抵抗がある方もいらっしゃるかもしれないので、日本の食べ物を使った洋菓子……たとえば抹茶やほうじ茶のパウンドケーキなんてどうですか?」


「なるほどなあ。抹茶ならキッチンに置いてあったかもしれない」



――私、作ってみます!


推測と確信の入り交じった声が耳を掠めた瞬間、名前が名乗り出るのに時間はかからなかった。


材料や調理器具の場所もお手の物。

艶やかな髪をしっかり束ねた彼女が颯爽とキッチンへ向かう中、カウンター付近に残った妙な空気を切り替えるように店長が一人大人しい男を手招く。



「兄ちゃん、ちょっといいかな」


「……」


「何、そう警戒しないでくれ。あんたにとっても≪いいこと≫だから」



いいこと。そのような甘言に容易く惹かれるほど、自分は浮ついた世界で生きてはいない。

しかし鋼に似た感情の壁で理性を包むや否や、リゾットの中で芽生えていた疑心はあっという間に覆されることになった。なぜなら、




「! これは……まさか≪キモノ≫か!?」


「どうだい、綺麗だろう」



朗らかな笑みを湛えた店長が持ち寄ってきたモノが、気品のある白い箱に収まった日本の着物だったからである。

白に一滴の青を混ぜたかのような淡い水色――月白≪げっぱく≫の布地に、散らばった珊瑚、紅、紫紺、常磐(緑)など色とりどりの菊や桜。そして控えめに施された金色の刺繍。織物に映える蜜柑色の帯。

その美しさに心奪われた彼は、気付かぬうちに感嘆の息をこぼしていた。


なぜこのようなモノを。アルバイトの制服と言いこのキモノと言い、まさかこの男、≪同士≫なのか――青年の期待と怪訝が垣間見える眼差しを、ひしひしと感じ取った店長が口元に苦笑を宿す。



「実は知り合いにジャッポーネマニアがいてね。ジャポネーゼの女の子がアルバイトに来てくれてたと話したら、≪ぜひ≫とそいつから一着貰い受けたんだが――」



そのとき、こちらに近付いてきた軽やかな足音。


鼻腔を擽る甘い香りから考えると、少女が菓子を焼き始めたらしい。

数秒後。男の予想通り、微笑を浮かべた恋人がひょこりと顔を出した。



「失礼します、店長さん。今オーブンに……、わあ!」


「……、名前」


「(リゾットさん、店長さんと仲良くなれたのかな。よかったあ……)すごく素敵な振袖ですね」



さらに輝きを増す紅い双眸。

とてとてとカウンター席へ歩み寄ってきた名前。

そんな彼女の左腕をすかさず引き、傾いた身体を確かに抱きとめたかと思えば、決して離そうとしないリゾット。


念のため彼のことは基本的に伏せているのだが、それをわかっているのだろうか。思わず悲鳴と共に発しそうになった名前をグッとこらえ、口をパクパクさせた少女が視線で必死に訴えかけても、相手はあくまで素知らぬフリだ。



「(リゾットさん! は、離してください……!)」


「……(ダメだ)」



一方、二人の無言の応酬を初めて目にした店長が、肩を竦めないはずがない。



「〜〜っ」


「まったく、アイコンタクトまで取って……熱いねえ。って、若い恋人たちに驚いてる場合じゃなかった。でね、名前ちゃん。このキモノ、おじさんの知り合いから譲り受けたモノだから貰ってほしいんだけど」


「え!? 店長さん、それはさすがに……っ」


「そう遠慮しないで。本来機会があれば名前ちゃんに渡すつもりだったんだし、ジャッポーネでも年始によく言うだろ? あー、えーっとなんだっけ……お、おと……≪オトシダマ≫! そうだ、おじさんからのオトシダマだと思って! な? ここで着替えていってもいいよ」



≪お年玉≫、にしては豪華すぎるだろう。

名前がもう一度遠慮を口遊もうとした矢先、投下された爆弾。

ご丁寧にも着付けの方法が記載された紙が備えられている上に、振袖自体は成人式以外にも数度経験していたが、≪完全に1人≫となれば不安にもなった。


そこで、ふと抱き寄せたまま微動だにしない恋人を見上げると――予想をはるかに超えて、黒目がちの瞳2つが希望に満ち溢れているではないか。

こういうときだけ普段以上に素直なリゾットに対して生まれたのは、小さな呆れと大きな気恥ずかしさ。



「か、かなり時間がかかっちゃいますよ?」


「それは承知している。よければオレも手伝うぞ」


「えと、お手伝いは遠慮させてください。あとは、その……あまり似合わな――」


「似合わないわけがない。むしろオレは、雑誌やテレビなどでキモノを見かけるたびに名前、君に着てほしいと思っていたぐらいだ」


「……」


「…………」


「っうう。が、がっかりしても知りませんからね?」



見つめ合い勝負、呆気なく敗北。彼の眼差しにまんまと気圧されてしまった彼女は、色鮮やかな振袖一式を手に奥の個室へ向かい、そこでいそいそと着替え始めることにした。


一方、来店した当初とは反対に喜々として少女を見送った男は、胸中に広がっていく高揚感に隠しもせずただ口元を綻ばせるばかり。



「(ジャポネーゼはずいぶんマメだと思っていたが、案外新年の挨拶もいいものだな。まさか名前のキモノ……いや、フリソデだったか。フリソデ姿を見られるとは)」


「ああ、そういえば。何も知らねえだろうイタリア男に1つ朗報だ。あんた、≪ヒメハジメ≫ってのは知ってるかい」


「……ヒメハ、ジメ?」



聞き慣れない言葉だ。


眼前の男の口から飛び出した単語に対して、リゾットはあくまで真顔を貫き通しているものの、そのぎこちない反応にさすがの店長も勘付いたのだろう。

心情を表すように指先でポリポリと頬を掻きつつ、白に変わりゆく眉を八の字にした彼がそっと詳細を紡ぐ。



「まあ要するに、アレだよ。年が明けて、初めて男女がする営みってことさ」


「!」



刹那、雷が鋭い音を立てて青年の脳内に、落ちた。

同時に思わざるをえない。≪この人はなんて博識なのだ≫、と。


つい数時間前まで、可愛い恋人をここへ行かせていいものか渋っていた事実すら、今では悔やまれる――当然、自分の知らないところであのような制服を指定したことはいただけないが。


喧騒とは無縁の、のどかな店内を包んだ妙な沈黙。それを引き裂くかのように、不意にリゾットが形のいい唇を震わす。



「……店長」


「ん?」


「エスプレッソを、……いや。エスプレッソと、≪オムスビ≫を頼む」


「はははッ、了解。すぐ用意するよ(意外にわかりやすいお兄ちゃんだねえ)」



――この人/この兄ちゃんとは美味い酒が飲めるかもしれない。いろいろな意味で。



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