放課後。
二人にしてはひどく広い体育館内で、黒いジャージを着たリゾットはスポーツタオルを手に、なんとか真顔を保ち続けていた。
ちなみに、授業時にはあの銀縁眼鏡を装着しない主義らしい。
「……」
マット運動に跳び箱。器械体操によって彼の視界で揺れるブルマー。
一生懸命授業に向き合っている名前の、制服ではわかりにくい豊満な胸部と引き締まったくびれ、ブルマーの裾から伸びる滑らかな太腿、そして小ぶりながらも婀娜やかなヒップが曝け出されたこの姿を目にすると、性懲りもなく思ってしまう。
――なぜ、さっさとハーフパンツに変わらないのだろうか、と。
さらに、黒髪をポニーテールにすることで露わになるうなじ。
その薄く脈が浮かぶ白い柔肌に対して、男子生徒が鼻の下を伸ばすたびに、嫉妬の炎が男の心中には渦巻いていた。
「あの、ネエロ先生?」
「!」
とは言え、脳内を占める考えごとに気が付くことなく、少女はマットに開脚状態という無防備な格好で話しかけてくる。
まったく。こちらの気も知らないで――と、胸中だけで苦笑を漏らしながら、跳び箱を指差す彼女に微笑んだ。
「……すまない。準備ができ次第、始めてくれ」
「はいっ!」
「(落ち着け、リゾット・ネエロ。いつも通りだ……いつも通り、何事もなく補習を終わらせればいい)」
唱え続ける自分への呼びかけ。
何度か瞬きをしてから、なんとか冷静になったリゾットは男ではなく一体育教師として黒目がちの瞳を一生徒へ移した、が。
ガタッ
「……っ、ひゃん!」
「な……ッ」
跳び箱上に跨った状態で止まった躯体。
すると、臀部から失った布の感覚に、我に返った名前は慌ててそこから降りる。
やっぱり外れて――紅潮した顔でごそごそと動く少女。
一つの不安が脳内を掠めた。
「(う……見えて、ないかな……?)」
男から見えぬ影で指を忍ばせ、くい込みを直す仕草を装って左右の紐をリボン結びする。
一方、何事にも基本冷静な彼は珍しく動転していた。
飛ぶことに失敗した彼女のブルマー。その裾から≪細いモノ≫が見えたのだ。
「(ま、まさか……紐か? 紐、なのか? いや、清純で慎ましやかな名字がそのような蠱惑的な代物を…………、もちろんそのギャップもそれはそれでたまらないが……)」
おそらくリボンといった飾りなのだろう。
空目だ。そうに違いない。
そうでなければ(理性的に)困る。
平常心。平常心だ、とその単語を脳髄へ連ね続け、鼻腔の奥で香る鉄の臭いとひどく高ぶる身体の芯をリゾットはただひたすら無視し続けていた。
「せ、先生……もう一回、飛んだ方がいいです、か?」
「……いや、大丈夫だ。きょ、今日はこれで終わりにしよう」
揺らいでは、教育現場という環境下で塞き止められていた理性。
しかし、ある≪出来事≫をきっかけに、彼の本能はそれすらをも凌駕することになる。
「ネエロ先生。まだお仕事ありますよね? 私、一人で片付けられますから……」
「ふ、そうやって気を遣うな。オレは生徒一人に片付けを任せるほど無慈悲ではない。それに、マットや跳び箱は一人じゃあ重いだろう? ……限度を超えてはならないが、子どもは甘えるのが特権だ。名字、君ももっと肩の力を抜くといい」
「あう……すみません(……子ども、かあ)」
互いに抱えた複雑な想い。
それを滲ませながら、二人は体育館内の倉庫に足を踏み入れていた。
「……」
「……」
倉庫と館内を繋ぐドアを閉めた状態で、しばらく続く無言。
だが、すべての片付けが終わり、ホッと安堵の息が二つの口からこぼれる。
彼女にとっては緊張状態、彼にとっては生殺し状態。それから抜け出せる――二人とも、そう信じて疑わなかった。
「……終わったな。名字、ご苦労だった」
「いえ……先生、今日もありがとうございました」
「そう畏まるんじゃあない。オレは、当然のことをしているんだ……さて、あちらに戻――――ん?」
慈愛に似た男の配慮。
まさかそれに≪恋愛面≫のモノが含まれているとは気付いていない名前が、リゾットの先生としての姿勢に一人感動していると、突然変わった教師の声色にきょとんと目を丸くする。
「どうしました……?」
「開かない」
「えっ?」
「扉が、開かない。鍵は外だ」
え――思わず聞き返してしまいそうな言葉。それをグッと飲み込みとにかく彼の元へ近寄ろうとした、瞬間だった。
「!?」
突如闇に覆われた視界。
施錠されてしまったというドアの隙間からも失われた光。
どうやら、体育館全体の電気が消されてしまったらしい。
思わぬ事態に、少女はいつも以上に動揺してしまう。
「(どうしよう……真っ暗で、何も見えない……)」
「……名字。電気のスイッチを押したが、ここのは明かりが点くのが遅い。とりあえず、今どのあたりにいるかできるだけ詳しく話してくれ」
すると、鼓膜を震わす落ち着きの払ったテノール。
それだけで安心してしまう自分の単純さを嘲りつつ、「えと、跳び箱のところです」「跳び箱……左端だな。わかった。待っていろ、今行く」と、彼女は男との言葉の応酬を重ねていった。
そして、言いつけ通り一歩たりとも動くことなく、静かに待ち続けていると、ふと角ばった大きな手が左手を包んだ。
「やっと捕まえたぞ」
暗闇でも、リゾットが穏やかに微笑んでいるのがわかる。
そう考えるだけで、トクトクと自己主張を始める心臓。
恐怖ゆえか、恋心ゆえか――自然と名前の唇からは想いが漏れた。
「温かい……」
「何がだ?」
「あっ! いえ、なんでもないです……!」
すぐさま返ってきた反応に慌てて首を横へ振りながら、少女は舞い上がっていた己を叱咤する。
――期待しちゃ、ダメ。
自分は先生にとって、他生徒と比べて少し手のかかる≪子ども≫でしかないのだ。
わかっているのに――彼の教師としての優しさが、実は自分だけに向けられた特別なモノなのではないか、と時折勘違いしてしまいそうになる。
でも、それは違う。押し寄せた切なさに、眉尻を下げた彼女は小さく下唇を噛んで、覆っていた彼の手のひらをそっと右手で解いた。
「えと、先生……私はもう大丈夫ですから……」
「っ、待て。今再び離れるのは危険だ。名字――」
逃げるな。
その声が音になるより先にするりと離れる、か細い手。
刹那、ようやく闇に慣れてきた男の視界に映り込む、傾いた少女の身体。
「!」
自分は、何かに足を引っ掛けてしまったらしい。
転ぶ――多少の怪我を覚悟し、少女が目をきゅうと瞑る。
「名前ッ!」
「(え? 今――)」
が、次の瞬間、彼女の躯体は何かのぬくもりに包まれていた。
ドサッ
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