「では、行ってくる」
「おう。気をつけろよ」
その後、おもむろに立ち上がったパードレに、末っ子であるペッシを世話していたマードレが、一言呟く。
倦怠期ってわけじゃないけど、不思議な二人だよねえ。
「メローネ、何にやにやしてるんだ?」
「いやあ、うちの家族は面白くて飽きないなあって」
「……お前が変態なだけで、オレらは関係ねえだろ」
「違うよ、イルーゾォ! そういうやつほど、自分の性癖に気づいてないんだ! まあ、それを開花させるのもベネだよね……」
あ、イルーゾォがパン食べながら、オレから目をそらした。
あはは、もしかして≪嫌な予感≫でもしたのかな?
「……それより、テメーらもう出なくていいのかよ」
「ギアッチョ、オレお前の兄貴……って、やば!」
「あ、ストップストップ! 今、行っちゃあダメだって!」
さっとドアの前で立ち塞がれば、焦りと苦情の織り交じった視線が向けられる。
ああっ、その目もなかなか……ベネ……!
「おい、メローネ。なんで止めるんだよ。オレもう行かなきゃ間に合わないって」
「いや……いや、ね? 今はホントやめとこうぜ!」
だってさ、今は――
その頃、玄関では。
「お父さん、今日もお仕事がんばってね。いってらっしゃい」
「ああ。……」
「?」
カバンを渡し、父に向かって手を振るが、リゾットは微動だにしない。
「えっと、お父さん?」
「名前……いつものアレはしてくれないのか?」
「……!」
昔からの習慣だった。
ネエロ家の唯一の娘名前に、父リゾットがいってらっしゃいの≪キス≫をせがむのだ。
もちろん、娘が幼いのならそれもありだろう。
しかし――
「あ、あのねお父さん? 私、もう大学生だよ? さすがに恥ずかしいというか……」
「そうか……オレはいつもこれだけが楽しみなんだが……残念だ」
期待の二文字が消え、一瞬にして寂しそうな目へと変わる。
「! 〜〜っ!」
チュッ
刹那、リゾットの右頬に感じる柔らかさ。
「こ、こここれでいいんだよね!?」
娘へ視線を向ければ、相変わらず顔を真っ赤にしているではないか。
――まったく、毎朝しているというのに慣れないとは……本当に可愛い子だ。
名前は知らないのだ。
その表情が、リゾットの加虐心を掻き立てていることを。
「まだ、足りないな」
「え、ええ!?」
カバンを下へ置く。
そして、一歩下がろうとする愛娘の肩をがっしりと両手で捕まえた。
「ッ」
「足りないんだ、名前……」
ピシリと固まってしまっている彼女の身体。
愛しくて仕方がない自分の娘。
――嫁になど……絶対にやるものか。
心に固く誓いながら、幼いころの名前がよくしたがっていた≪お口とお口のキス≫をしようと、顔を近づければ――
「こんの……親バカ野郎がッ!」
「グハッ!」
ガンッ
ドサッ
バタン
「お父さん!?」
自分の横から伸びた長い脚によって外へ吹き飛ばされ、閉められた扉で見えなくなってしまった父の姿。
これでもかと言うほど目を大きく見開いた名前は、慌てて隣を――プロシュートを見た。
「お母さん……お父さんが――」
「名前! リゾットは出かけたんだ。気にしてねえでリビングに戻んぞ」
あくまで≪出かけた≫と言い張る母。
確かに、乱暴だがお見送りとも言えなくは……ない。
さっさと歩き出してしまった母と扉を見比べ、悩みに悩みぬいた名前は――
「お父さん……いってらっしゃい」
そしてなんだかごめんなさい。
胸の中で謝罪を述べながら、母の背を追った。
一方、家の外へと追い出されたリゾットと言えば。
「ぐっ……妙な邪魔をしてくれたな、プロシュート」
今頃笑っているであろう男を思い浮かべて、悔しさに奥歯を噛みしめていると――
突如鳴り出した携帯。
音は彼が立ち上がっているうちに止んだので、おそらくメールだろう。
「この時間にいったい――」
そう言いかけて、思考が停止する。
「≪エスプレッソを買ってこい。ディアボロ≫……だと?」
リゾットの視線の先にあるのは、上司からのメール。
名前の後に同じ絵文字が三つ並んでいることが、より彼の心を苛立たせた。
「……はあああ」
簡素な返事を送り返し、携帯をスーツの胸ポケットへと仕舞う。
――いつか、絶対に貴様を見下ろしてやる。
そして、子どもが泣いてしまいそうな鋭い目をした彼は、すでに帰りたい気持ちを抑えつつ、歩き始めるのだった。
ネエロ家の日常〜朝〜
お父さんは、いつも大変です。
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