「お嬢ちゃん……少しいいかい?」
「? はい」
少し冷たい風が吹きつつも、暖かな陽だまりが街を包んでいたあの日。
いつも通り、パン屋の息子の口説き文句を軽くあしらい、果物屋の四十代女性と少し長めのお喋りをして、帰路に着こうとしていた名前はその声にくるりと振り返った。
そこにいたのは、右手に杖を持ち、左手で鮮やかな紫色の花束を抱えた老人が立っていた。
どうしたのだろうか──と首をかしげる彼女に対し、男は人の良さそうな笑みを浮かべて、その左手にあるものを前へ差し出した。
「え? あの……私、今日はお花は──」
「ついさっきそこでね、君に渡してほしいと頼まれたんだ」
「!」
彼の言葉に、大きく見開かれる目。
名前の恋人――プロシュートは、何かにつけて彼女に花を送りたがった。
ご丁寧にも、一つ一つちゃんと意味を込めて──
その花も彼からだと言うのだろうか。
――どうして? だって、この花言葉は……。
これでもかと揺れる瞳に、少しだけ目を伏せる老人。
しかし、すぐさま表情を笑みへと変え、持っていた花束を彼女に半ば押し付ける状態で渡した。
「っ、わ……!」
「じゃあ、私はここで失礼するよ」
「ま、待ってください!」
くるりと踵を返す彼に、慌てて名前が声をかける。
そして、止まった背にホッとしながら、彼女はただひたすら叫び続けた。
「っ、恋人に! 彼に、伝えてほしいんです! ≪私は……ずっと待ってる≫って!」
「! ……会えたら、伝えておこう」
動き出す少しだけ腰の曲がった男。
「う、っ……ぐす……ひくっ」
その後ろ姿を見つめつつ、名前は瞳から溢れ出す、このどうしようもない涙を止める術を探していた。
路地裏でも聞こえるすすり泣く声。
もう、彼女の頬を自分が拭うことはない。
苦虫を噛み潰したような顔をした老人――プロシュートは元の姿に戻り、隣のペッシからジャケットを受け取っていた。
「……いいんですかい?」
「いいも悪いもねえ。オレたちは、チームの≪栄光≫を掴むんだ。そのためには、どうしても割り切らないとならねえものもある……ちゃんと覚えとけよ」
「でも、兄貴――」
ガンッ
なお詰め寄ろうとする弟分の鼻すれすれを、プロシュートの拳が突き抜け、建築されて数十年は経っているであろう脆い壁に勢いよくぶつかる。
パラパラと細かい木くずが落ちるなか、男は淡々と口を開いた。
「二度は言わねえ。もう、終わったことだ。マンモーニ、お前が口出しして変わることじゃあねえ……わかったか」
「……わかったよ」
「それでいい。……≪娘≫の居場所探り当てんぞ」
いまだ耳に届く自分の名前。
それを振り切るように一つ舌打ちをしたプロシュートは、路地裏の奥へと歩き出した。
――待ってるなんて、バカなこと言うんじゃねえよ。
次の瞬間、鼓膜を震わすのは――自分を引きずる列車と線路が擦れる音。
――日付は4月1日。
「……ク、ソ……ッ」
右腕はジッパーで開かれた状態のまま、どこかへ飛んで行ってしまった。
両足も、どっちに曲がっているか己で理解できないぐらい感覚を失っている。
身体に伸し掛かる重圧。
止めどなく血が溢れ、意識は朦朧とし始めているが、自分にはやらなくてはならないことがある。
「グレイト……フル・デッド……」
ペッシ、やるんだ。
お前はマンモーニだからこそ、可能性が――いや、≪絶対≫に成長できるんだ。
失われていく指の感覚。
それでも、仲間へ≪報告≫するために、携帯を掴む。
「……たの、む、ぜ……、ガハッ」
今までたくさんの命を奪ってきた。
だからこそ、自身に死が迫っていることがよくわかる。
掠れる視界。
まどろむ意識。
覆うのは赤。
いや、これは夕空と青空の境界線――黄昏時特有の紫か。
紫と言えば、あの花はもうそろそろ枯れてしまうだろうか。
「ッ、……名前……」
「ねえ、プロシュート! この服、どう思う?」
「ちょっと! あんたってどうしてそう、手だけじゃなく足癖が悪いの!?」
「……うん。私も、プロシュートのこと好き」
「伝えてほしいんです! ≪私は……ずっと待ってる≫って!」
「……ハン」
尽きかけている灯。
自分が走馬灯など、らしくない。
そうわかっていても、本能はきっと別れを告げた彼女を求めているのだ。
もう音も何も聞こえない。
だが、なんとか脳みそを叩き起こして、携帯の連絡先やデータ――すべてを消す。
「栄光は…………お前に……ある……ぞ……」
終わりへ向かう心臓。
振り絞られる力。
それさえ薄れていくのを感じながら、思い浮かぶのは名前の笑顔。
「……名前…………」
あのとき、最期に渡した花――≪シオン≫の花言葉。
それは――
≪御機嫌よう≫。
「……Addio」
いつか、必ず――
お前を迎えに――――
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