※微裏あり
微かな日差しが、カーテンの色を変える部屋で。
テンポを刻むように上下に動く人影が一つ。
床の上に敷いたマットの横には、二人では少し狭いベッドがある。
「……は、……はッ」
愛しい少女が布団に包まり、熟睡する姿を見つめながら、筋肉を鍛えること。
それが、毎朝寒いにも関わらず上半身裸で筋トレに励むこの男――リゾットの日課となっていた。
「……」
整い始めた呼吸。
おもむろに起き上がった彼が、静かに自室を出ていく。
そして、閑散としたキッチンに辿り着いたと同時に、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り、ゴクゴクと喉を鳴らした。
「静かだな……」
あたりを見回しつつ、ぽつりと呟く。
そう。今日は自分たち以外の全員が仕事や所用で出払っているのだ。
「ふむ」
考える仕草を見せた男。
部屋へ向かうため、自然と動き出す両足。
靴音だけが響く廊下。
しばらくしてそれが止まり、ドアノブを回したリゾットがゆっくりと扉を押し出せば――
「! 名前」
不思議そうに自分を布団から見上げる、寝ぼけ眼と目が合った。
「ん……りぞっと、さん?」
「おはよう、名前」
黒目がちの双眸を輝かせて、すぐさま彼女の元へと歩み寄る。
漂う柔らかな雰囲気。
そして、彼は少しばかり乱れた名前の髪を撫でながら囁きかけた。
「よく眠れたか?」
「……リゾットさんがそれを言いますか?」
「? どういう意味だ?」
「…………わからないならいいですっ/////」
今日も今日とてゴニョゴニョ――唇を尖らせつつふいっと赤くなった顔を隠すため、身体ごと壁際へ背けようとした少女。
一方で、男はその肩をすかさず捕まえながら、あいまみえた火照った頬に「そういうことか」と口角を上げた。
「そうか……次は激しくシすぎしないように、考慮しよう」
「ッ! 言わなくていいですってば!」
「ふ、まったく……恥ずかしがり屋で可愛いな、名前は」
羞恥ゆえの拒否に自ずと微笑を浮かべ――桜色の唇へ己のモノを寄せる。
「んっ////」
「名前……」
今にもベッドへと逆戻りしそうな躯体。
だが、それを阻止するかのように、彼女は布団を自分の胸元へと取り込んでしまった。
次に放たれる一言。
「リゾットさん、先に着替えてください」
「……」
「そ、そんな目で見てもダメですっ」
じとりと、懇願を交えた視線に負けてしまいそうな己の心を叱咤する。
慌てて控えめに上目遣いで見据えれば――渋々ではあったが、諦めてくれたらしい。
ベッドから離れ、シンプルなシャツに手をかけた恋人。
その姿をちらりと見やると。
「……っ」
カーテン越しの光が照らす、彫像のような裸身。
はっきりと刻まれた凹凸。
筋張った鎖骨、肩、腕――
「///////」
「ん?」
ふとそちらを振り向いたリゾットは、布団から覗く赤らんだ顔に首をかしげた。
とは言え、名前の可愛らしさに心は刺激され今度こそ、と意気込みながら近付く。
「名前、着替え終わったぞ」
「! わかりました、私も着替えます……ってあの、リゾットさんはどうして近付いて」
「手伝いたいと思ってな。待っていてくれ、今すぐ服と下着を持って――」
「だ、大丈夫ですから……!」
思わぬ気遣い。
引きつってしまう頬。
背中のホックだと付けにくいだろう――そう言って迫る彼に対し、彼女は懸命に遠慮を示すしか恥ずかしさから逃れる術がなかった。
昼前の珍しく静かな朝食。
いつもに比べてかなり遅いそれを摂りつつ、男はおもむろに口を開く。
「名前。今日は、誰も帰ってくる予定がないんだ」
「? はい……」
一方、告げられた突然の言葉に、普段とは異なった静寂への小さな寂しさを覚えていた少女は、きょとんとした表情を見せる。
すると、自然と顔を綻ばせるリゾット。
こちらを貫く瞳へ視線を移した彼は、以前から考えていた≪誘い≫を、そっと紡ぎ出した。
「夜に出かけないか?」
「!」
「ヴァレンティーノの、お礼がしたい」
そんな、いいのに――と躊躇いながらも嬉しそうな名前に、ますます頬が緩む。
「ゆっくり街を歩こう」
「……はいっ」
承諾と溢れた笑み。
彼らの間には、言うまでもなく穏やかな空気が広がっていた。
それから、イタリア特有の軽めの食事だったからこそ、片付けと同時に昼食の準備を始めた二人。
しかし、ロングパスタを鍋に投入していると後ろから優しく抱きすくめられ、彼女はただただ眉尻を下げる。
「リゾットさん……あの、危ないですよ?」
「そんなことはない。名前は目の前の鍋に集中してくれ」
「……もう」
離すつもりはないと言いたげな力強さに根負けし、そのまま動作を続ける少女。
そうした姿を間近で見つめつつ、温もりを確かめるように男はさらに両腕で恋人の細い身体を閉じ込めた。
とは言え、てきぱきと働く名前に、脳が何もしないという判断を出すはずもなく――
「……、……ふっ」
「ひぁっ!?」
リゾットは、不意に小さな右耳へと息を吹きかけた。
当然、彼女はビクンと肩を揺らしながら、身体を捩ろうとする。
「り、リゾットさん……イタズラしないでくださ、ぁっ」
「ふ……こちらは気にするな。名前、集中しなければパスタが茹だりすぎてしまうぞ」
「っん、ぁ……耳、なめな、でぇ!」
ねっとりと耳たぶを食まれ、逃れようにも逃れられない。
いや、逃がす≪つもり≫がないのだ。
少女のエプロン新妻姿を想像したが最後、興奮気味な彼の暴走は止まりそうになかった。
だが、名前限定で沸き起こる情欲は、突如強制的に終わりを告げる。
「――リゾットさん!」
「んぐッ」
口に放り込まれた何か。
正体すらわからないままそれを咀嚼するが、おそらくパスタの前から調理していたジャガイモだろう――と判断。
火傷をしてしまわぬよう程よく冷ましてあるのが、また優しい彼女らしい。
「お昼にしましょう?」
「名前の手料理ももちろん食べたいが、今オレは名前を食べたい」
「たッ! 〜〜っこ、こんな明るい時間に、何言ってるんですかっ/////」
「……」
結局、このときも男の目論見が叶うことはなく、振舞われた料理に舌鼓を打つことになった。
食事後には必ず――という思惑だけを残して。
午後。
リビングのソファに腰を下ろす男と女。
仲間が頻繁に企てる邪魔すら受けることのない空間に、もちろんリゾットは俗に言う≪イチャつくこと≫を試みた、が。
「ふふ、可愛いですね」
「……そうだな」
動物特集を映す、テレビという名の家電にそれは阻まれてしまった。
――なぜだ。なぜ……こうも人為的ではない邪魔が入る。
一方、彼の苦悩など露知らず、少女は口元を綻ばせている。
そのキラキラした視線の先には、子犬から切り替わった画面が。
「あ、リゾットさん! 今度はウサギさんですよ!」
「ウサギ……」
「はい!」
隣で大きく頷く名前。
ほっこりとした表情は当然可愛い。自分に伝えたいという想いと仕草も可憐で、たまらなく愛しい。
しかし、男はひどく意気消沈していた。
「はあ……」
密かにこぼれるため息。
刹那、ふと控えめに引き寄せられた服の袖。
「リゾットさん! 今のウサギさん、リゾットさんに似ていると思います! 特に毛色と目の感じが……!」
「オレに?」
自分に酷似したウサギなど、想像もできない。
だが己を呼ぶ名前はとても愛らしい、抱きしめたい――と邪心を抱きつつ彼女の目線を追えば、ぴょんぴょんと草原で跳ねるウサギが。
――似ている、のか? 共通点がまったく……ん?
すると、次に現れた黒いウサギにリゾットは言葉を連ねる。
「ふむ……それを言うなら、このウサギは名前にそっくりだ」
「えっ」
「と言っても、うちの名前の方が断然可愛いが(キリッ)」
「あの……比べる基準がおかしいと思います」
漏れる苦笑。
困惑した少女の表情を凝視していると、ある知識が脳内を過ぎった。
「そう言えば」
おもむろに紡がれた話に、名前がコクリと首を縦に振る。
「はい」
「野ウサギのオスというのは、発情の始まる三月頃に落ち着かなくなるらしい」
もちろん、頭上に浮かぶクエスチョンマーク。
なぜそんな話になったのだろうか――そう思ったのも束の間、なぜか腰を上げた彼に前を立ち塞がれてしまった。
「!? テレビが見えなっ」
「見なくていい。名前……オレだけを見ろ」
両手で包まれる頬。
真摯な眼差しと思いもしなかった命令口調に射抜かれる。
トクリ、と心臓がざわめいた。
「っ、ぁ……」
ゆっくりと肌をなぞられ、ゾクリと快感に似たモノが彼女の背中に駆け上がってくる。
そして男が、その熱に浮かされ始めた視線から一切目をそらさぬまま、穏やかな音楽をバックに顔を近付けた瞬間。
自己主張するアジトの電話。
Prrrrrr...
「……」
「……り、リゾットさん」
Prrrrrr...
気まずい雰囲気。
それにたじろぎながらも、少女はおずおずと電話に出ることを促した。
「あの……出ないん、ですか?」
「ああ、出るつもりはない」
「で、でもっ……お仕事に出られた皆さんかもしれませんよ?」
「……」
確かに。
あいつらからの連絡を聞き逃すのは困るな――恋人との時間はもちろん大切だが、そこはやはりチームリーダー。
男は訝しげに電話へ歩み寄っていく。
緊迫した状況から解放された名前は、その後ろ姿を心配そうに見守っていた。
「プロント。……、……いえ、うちは結構です。……は? いや……まだいませんが」
「?(知り合い、じゃなさそう……)」
数十秒後、いくらか会話を交わして、戻ってきたリゾット。
ところが、その顔には疲労感が。
「セールスだった」
「そ、そうだったんですか……でも、断り方がすごく手馴れていて、意外でした」
「そうか? ……まあ、あちらはランダムに電話をかけてくる。たとえここが暗殺者のアジトであっても、さまざまな勧誘が多いのは仕方がないな」
なるほど――独身にしてはかなり所帯染みている、とはさすがに言えず、彼女はさっと口を噤む。
一方で、再びソファに座ったと同時に彼はぽつりと音を紡ぎ出した。
「ところで、≪お子さんのご結婚もあることですし≫と元気よく言われたんだが……そんなにオレの声は老けているのだろうか」
「え」
慌ててそちらを振り向けば、少なからず沈んでいる男。
年齢に関して結構ナイーブらしい。
当然、元気を出してほしい一心で少女はフォローを始める。
「り、リゾットさんのお声を聞いていると……私は落ち着くし、好きですよ? それに、その…………さ、囁かれるとすごくドキドキしちゃいます、し……っ」
「! 名前……!」
「へ……っきゃあ!?」
次の瞬間、ソファ上で強く抱き寄せられる身体。
――まさかこの状況で名前の本音を聞けるとは……!
薄笑いしてしまいそうな口元。
だからこそ、嬉しさのあまり自分が先程までナニをしようとしていたかなど、完全に忘れてしまっていた。
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