「……名前?」
「ふふ、どうかされたの? って、ちょっと!?」
「失礼する」
なぜか自分にまとわりついてくる女性たちを跳ね除け、きょろきょろと周りを見回す。
――どこだ……名前、どこに行ったんだ。
もっと早く迎えに行けばよかった。
しかし、それをしなかったのは――彼女が必ず戻ってくるという妙な自信ゆえか。
そんな保障なんて、どこにもあるはずがないのに。
――あのとき、嫌がられても腕を引けばよかった。そして、もう十分体裁を保ったのだから、二人ででも帰宅すればよかったんだ。
苛まれる後悔に、グッと歯を食いしばりながら、バルコニーへと向かう。
「……いない、か。……! これは」
中からの明かりで一瞬だけきらりと光った何か。
誰もいないその場にしゃがみ込み、拾い上げれば――見覚えのあるイヤリング。
――ドレスとともに購入した……名前のに違いない。
恥ずかしそうにしながらも、笑顔でそれをつけていた彼女を思い出し、立ち上がる。
――何があったというんだ。いったい、何が……。
「……あんた、もしかして名前の知り合いか?」
「!」
突如聞こえた声にそちらを向けば、不思議なおかっぱの男――ブローノ・ブチャラティが眉をひそめて立っていた。
「……そうだが」
「先程……幹部の一人に彼女が連れて行かれていたのを見たもんでな」
「幹部……?」
なぜ、関係もない彼女を?
リゾットは一度たりとも名前の情報を公開していない。
それは、ボスにでさえもだ。
「アイツは、女好きで有名だ。おそらく……行ったのは寝室じゃねえか?」
次の瞬間、ゴオッと燃える感情とともに、彼は走り出していた。
――名前……ッ!
そのスーツの裏に隠してある、凶器を確認しながら――
ドンッ
「……きゃあッ!」
その頃、やはりと言うべきか、名前は真っ暗な寝室に入っていた。
ベッドに突き飛ばされ、覆い被さられる。
吸血鬼だからだろうか。
はっきりと見えてしまう男の顔――いやらしい笑みがとても不愉快で、とても恐ろしかった。
「ひひひ……さて、暴れないためにも失礼するよ」
「え? ッ……や、何!?」
今度こそ≪黒≫一色になる視界。
そして、持ち上げられ何かできつく縛られる両手首。
二つの正体は、男の身に着けていたネクタイとベルトだった。
――う、動かないッ!
身体を捩ってみるが、ただ腕が悲鳴を上げるばかり。
その焦燥した名前の姿に、男は舌なめずりをする。
「なるほどねえ……細身だが、いい体つきだ……」
「っ……ゃ、!?」
ふと脇腹に感じる分厚い手。
さわさわと動くそれに、冷や汗だけが流れていく。
「しかし、青白いな……まるで≪死体≫のようだ」
「!!!」
刹那、恐怖も苦しみも吹き飛び、支配し始める衝撃と悲哀。
――そっか……そう、だよね。私、死んでるようなものなんだ。
「なんだ? 泣いているのか? ひひひッ、安心しまえ……徐々に啼いてしまうほどよくなる」
「ひぁ……や、あ……ッ」
ネクタイを濡らす雫に、ただただ時が過ぎることを願う。
名前は、一つだけどうしても嫌なことがあった。
それは、今から行われようとしていることでも、その後どうなるかわからない未来のことでもない。
――お願い……リゾットさんには、リゾットさんだけには……軽蔑、されたくないの……!
できるだけ声を出さないよう、唇を噛む。
鋭い八重歯が食い込み、鉄の味が広がるが、自分のものは美味しくないのだ。
男の手がドレスの胸元部分を引きちぎろうとする。
次の瞬間だった。
「グエッ……ガァッ!」
カエルが踏みつぶされたような音とともに、消える上からの圧迫感。
そして、するりと外される、ベッドの柵と自分の手首を繋げていたベルト。
「……誰、ですか?」
さらには、ネクタイまでもが取られ、お礼を言おうと身体を起こそうとした、が。
ドサッ
「……え?」
自分の目はまだ狂っているのだろうか。
なぜなら、再び押し倒し、こちらを見下ろしているのは――
「……リゾット、さん……」
「……」
とても、冷めた目をしていた。
まるで今から≪仕事≫を行うような――
「リゾッ、トさん……あの」
「……ぜ、…………た」
「え?」
小さくて声が聞こえない。
わけがわからず、彼を見つめていると――
「なぜ、叫ばなかった……」
「! それは、その」
「まさか、自分からここへ来たわけじゃないだろう」
「ち、違います!」
「じゃあなぜ……なぜ、誰にも助けを求めなかったッ!」
浴びせられる怒声。
鋭く睨みつけられ、呼吸すら止まってしまいそうだ。
――もしかしたら、このまま殺されてしまうかもしれない。
きっと、リゾットは自分に幻滅したのだろう。
心配してくれたからこそだ。
今や溢れ出していた涙は干からびてしまった。
何を言うべきか、彼を見上げながら逡巡していると――
「……ぅっ」
ベッドのそばで聞こえたうめき声。
男が目覚めるかもしれない。
リゾットはさっと名前から退き、立ち上がる。
「行くぞ」
「リゾットさん! 私――」
「もう」
「もう、何も言うな」
名前は、ただ一人、≪終わり≫を感じ取っていた。
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