quattro




同時刻。


「……」


≪刑務所≫からの帰り道。

アスファルトの坂道を淡々と進むリゾットは、先程までの彼との会話を思い返していた。



「ん?」


「……」


「おお、来たかね」


相手は自分たちを含めたいくつかのチームを統括する幹部。大抵の任務はパソコン越しに伝えられるが、今回に限っては珍しく、直接呼ばれたのだ。

警備員相手に、目を暗ませることなどメタリカを操る男にとっては容易なことだった。


視線の先には、牢屋の中でバナナを貪るポルポ。いけ好かない人物ではあるものの、組織の入団試験を担い、刑務所内で優雅な暮らしを満喫しているだけのこの男を殺しても意味はない。

用件を待っていると、彼の気配を察した巨漢は独り言のように呟き始める。



「以前から信頼関係を保つために、≪無理やり外した瞬間、爆発する仕組みを持った首輪≫が他の組織で流行り始めているらしい」


「!」


それはまさか。

後頭部を鈍器で殴られたかのような衝撃。


あくまで被る冷静沈着の皮。同時にリゾットの脳内では、連続して吐き出された言葉がエコーのごとく何度も何度も響き渡った。



「≪どこから≫そんなモノが出回ったのか、我々は知らないが……最初にそれを付けられた奴は、一体どんな≪種族≫なんだろうなァ〜〜。この世でもっとも大切なのは≪信頼≫だ。人は人を信頼できるかどうかで選ぶ。首輪など必要ない。つまりそいつは、≪人ではない≫ということだ! そう思わないかね?」


≪どの口が言う≫。

グッと握り締めていた左手。無意識のうちに力がこもった。





「ッ」


ちらついてはふわりと消える恋人の姿。

白くほっそりとした首筋を覆う、あの黒い≪異物≫。元より一人で抱え込む癖を持つ名前。

彼女自身、二年前の記憶が曖昧なこともある。


だが、心中に秘めたモノが多すぎるのでは、とも感じていた。



「(それにオレは名前を知らなさすぎる)」


薄い唇に浮かぶ自嘲の笑み。


自分が知る由もない少女を知ることが、こんなにも≪恐ろしい≫。

過去について尋ねた途端、なぜか離れていくように思えてしまうのが、これほどにも――



「(今すぐ、会いたい)」


もうアジトに帰っている頃だろう。推測ではあるが、あのビデオはあくまで暗殺チームに対する挑発だ。

名前を求め、ひどく渇望しているのは、≪生≫に躍動する心。


ただ、確かめたい。


君が≪ここ≫にいることを。



「……。雨、か」


ポツリ、ポツリ


前触れもなく髪を、肌を、面積の低い服を濡らしていく雨。

そういえば天気予報で降ると言っていたな、と体温が下がっていくのを他人事のように感じつつ、別の光景に圧殺されていた情報をなんとか手繰り寄せる。


「……ふ」



感覚も鈍ってきているのか。ふと過ぎった思考に、何度目かわからないが彼は自分の正気を疑った。

≪もしごく一般の、表の人間だったら≫――そんな仮定など、滅多に口にしない。


「(ましてや、過去を変えたいなど)」



しかし同時に思うのだ。

自分があの日、復讐を胸に誓わなかったとしたら、彼女と出逢うことは決してなかったのではないか、と。


そして、名前が≪ある吸血鬼によって≫血を注がれなければ、あの教会で邂逅するどころか、すれ違うことすら――



「(いや。これ以上考えるのは、やめよう)」



≪普通≫を望むには、自分の心は黒く淀み、手は生臭い赤に染まりすぎていた。


「(あの子はオレを受け入れてくれている。≪最初からわかっていたかのように≫。……それについて追求したことはなかったが)」


むしろ、聖女と呼ぶべき少女のそばにいること自体、歪なのかもしれない。


≪離れるべきでは≫。≪離したくない≫。そんな、相反した感情。

ただ一つ、わかること。



「――オレは、無力だな」


嘲りに細められた黒目がちの瞳。

視界を徐々に覆っていく数多の雨粒。


「チームも、彼女も守れていない」



オレたちなりの平穏。それはどこまでも遠く、得がたいモノ。

自分に、あいつらに、そして恋人に課せられた≪首輪≫。

結局、ボスの情報も隙も掴むことができないまま。


必要以上に探れば、待つのは≪死≫のみ。



「(どうすることもできない。それでも)」


両足を捕らえて離さない、おぞましいぬかるみ。どれほどみっともなくても、そこから抜け出すためにひたすら藻掻きたい。


もうあの≪喪失感≫は二度と繰り返さない。

これ以上、家族を、仲間を失うのはたくさんだ。



「(不安定なのは未来だ。だが――)」



眼前にあるはずの名前との大切な≪今≫さえ、危ういと脳内で警鐘が鳴るのはなぜだろう。

それは画面越しの悲惨な光景を目にした直後で、何もできなかった自分に憤っているからか。

それとも、誰の助けも求めず、一人耐え続けた彼女に心をひどく揺さぶられたからか。



「(ああ、やはり早く帰ろう)」


少女を想えば、自然と足早になった。

あの微かなぬくもりを感じたい。君がオレの傍にいると、オレが≪儚くも壊れることはない、確かな存在≫にただただ焦がれて作り出した幻覚ではないと、教えてほしい。

狂おしさに似たそれと、紙一重の情愛。元は二つだと感じさせないほど美しく織り交ざるそれらが、≪すべて虚妄だったのだ≫と耳元で囁く前に。


いや、もう遅い。不意に立ち止まった男が、小さく口端を歪める。「オレは、二年前から夢を見ていたのかもしれない」。なぜなら、こうして想いを馳せた瞬間、目の前に雨傘を差した愛しい名前が現れるなどありえない――



「リゾットさん……っ」


「!」



次の瞬間、焦燥した様子の彼女がこちらに駆け寄ってくる。

≪現実≫なのだ。


「名前?」



止んだ雨。二人で共有する傘。重々しい空気へ潜り込ませるようにぽつりと名を呟けば、「はい」と間髪容れずに返事を紡ぎ、不思議そうに首をかしげる少女。

足。腕。瞼。唇。名前の動きすべてがスローモーションに感じられた。


柄にもなく混乱しているのだろうか。ひどく、喉が震える。



「なぜ、ここに」


「もう。それは私のセリフですよ? 午後から降水確率90パーセントなのに、リゾットさんが傘も持たずにアジトを飛び出したってギアッチョさんから聞いて、びっくりしちゃったんですから」



眉をひそめ、少しばかり怒りを滲ませた深紅。しかしすぐさま切り替わるように、「無事でよかった……」と柔らかな声が耳を掠めた瞬間、心臓がドクリと跳ねた。

胸の奥底に現れる安らぎ。リゾットは仲間に用事の詳細を伝える余裕もなかったのか、とそこでようやく把握する。


あのときは皆が皆、少なからず狼狽えていたに違いない。冷徹が大半を占めるはずの自分の心中が、充足感に満ちた現在とは違う意味でひどく掻き乱されていたように――そう内心分析していると、突如何かが右頬を優しく包んだ。

彼女の手のひらだ。



「っ、冷たい……」


「……」


「リゾットさん、帰りましょう? 帰ったらすぐお風呂に入って、それから――」









「名前……ッ」



カタンと轟く音。刹那、奥歯を噛み締めた彼は一本しかない雨傘が道に横たわるのも厭わず、眼前の恋人を掻き抱いていた。

もちろん、右手から滑り落ちたモノを気にしながら、鈴を張ったような双眸を大きく見開く少女。


「ひゃ!? ……あ、あの」


「すまない」







「少しの間でいい」







「あと≪もう少し≫だけ、こうさせてくれ」


「!」


「……」


「りぞ、とさん……(どうして――)」



――どうしてこんなに、震えてるんですか?


きっと理由は寒さだけではない。心も凍える出来事があったのかもしれない。

≪もう少し≫。さほど気に留めることのないその言葉が、じわじわと遅効性の毒のように名前を侵す。



「不意に」



じわり。彼女の黒髪を濡らすのは雨粒か彼の涙か、それすらわからない。

だがふと耳を掠めた音に、少女は男の顔を覗き込んだ。


「?」


「名前が消えてしまうんじゃあないか、と思ったんだ」


「……え?」



予期せぬ発言につい聞き返してしまう。しかしあくまで真剣らしい。


幾度か瞬きを繰り返した名前は、静かに右手を大きな背中へ回した。

そして、ぽん、ぽんと赤子をあやすかのごとく動かす。

一方、その仕草に心地よさを覚えつつも彼女が小さく笑ったことが気になったのか、リゾットが眉間に皺を増やしていると、おもむろに視線が交わり合った。



「リゾットさん。私はそんな、儚い存在じゃないですよ?」


いまだに不安なのだろうか。

揺らぐ赤い目線にもう一度頬を綻ばせながら、少女は己の左手をしずしずと彼の手に重ねる。



「ほら、こうやって――」


「名前?」



するりとほどけてしまわぬよう、強く絡ませた二人の指と指。


この声も、心音も、存在すらも。

本当に、すべて≪不確か≫かもしれない。



「!」



でも――赤に紅をぶつけた名前は、思いの丈を伝えるためそっと微笑みかけた。







「ね? 私はリゾットさんの目の前にいるでしょう?」


「――ッ」



暗殺者となって約十年が過ぎようとしている。これまで、さまざまな≪嘘≫を見てきた。自然と疑うことも覚える。


だがなぜだろう。彼女の瑞々しい唇から紡がれるこの一言を聞くだけで、すぐに安心してしまうのは。



いや、本当はわかっているのだ。

女と男。吸血鬼と暗殺者。そして命と命。小さな手を柔く、確かに握り返した大きな手。黒目がちの瞳に微かな灯を取り戻したリゾットは震える瞼を閉じ、少しだけ口元を和らげた。


「そう、だな」



――≪今≫、君は確かに――





≪ここにいる≫。そう、しとしとと降り続ける雨に紛れるほど静かに、呟いた。


しばらくして、自分たちが道中にいることを今更悟った彼は、名前を手放さなければならないという叱咤と、まだ離したくないという名残惜しさのせめぎ合いに苛まれつつも、やおら口を開く。


「帰るか」


「はい」


「……やはりあと三分、こうしていたい」


「ええ!? ……もうっ、風邪引いても知りませんからね」



平然と訂正すれば、驚きながら彼女がむすっと睨み上げてきた。

ところが言わずもがな、焦りという感情が男を急き立てることはなく。


以前のように献身的な看病をしてくれるのか。それはそれで――と言いかけたところをじとりと咎めるような視線を送られ、仕方なく口を閉ざす。

そんなリゾットに対して、少女はある決心に心情を揺蕩わせていた。


「(守らなきゃ)」




「(ううん、≪守りたい≫。皆さんの生命を。……貴方の未来を)」



それが来た理由であり、願いだ。

息を吹き返し、本調子でないにも関わらずありったけの想いを告げてくれたあのとき、彼は言った。≪オレの幸せは自分が生きていることが前提だ≫と。


逞しい胸元に額を寄せていた名前は、視界がぼやけ始めたことに気付く。



「(それは私も同じなんです……リゾットさん)」


「(貴方を、失いたくない。5ヶ月後じゃなくて数十年後に、あの非業の死よりは安らかな最期を、どうか私に見送らせてください)」



自分がそのときどうなっているかは、正直わからない。

たとえ結末を変えることはできても、恋人の人生の最後まで付き添うことができるのか、それすらも――



「名前」


「は、はい! ……どうしました?」


「……」



≪好きだ≫。羞恥が微かに滲んだ、けれどもひどく切迫した声音に反応するのは、≪生きている≫ことを教えてくれる胸の鼓動。


想像もしなかった形で出逢ったかと思えば、いつの間にか心臓を乱し、時に安らぎで心を温めてくれるかけがえのない人。

紙面越しではわからなかった、リゾット・ネエロの心に触れるたびに、彼女はそう想った。


意図せずこぼれていくナミダ。



「っ(雨が降ってくれていて、よかった)」



ハーネス状のベルトに淡く染みていく雫の意味を、彼に問い質されても困ってしまうから。

音もなくナミダが落ちていく理由を、自身も把握しきれていないから。


愛というただ溢れるばかりの感情を改めて自覚しつつ、≪未来≫について思考を巡らせていた少女はふと≪現在≫に意識を集中させる。


「私も……っ」



――大好き、です。


雨音に埋もれてしまうほど、小さな小さな告白。それでも貴方は、聞き漏らさないでいてくれるのだろう。



≪ああ≫、と心なしか嬉しそうに紡がれたテノールを胸に焼き付けながら。


少しでもリゾットがぬくもりを感じられるように。

たった数秒でも彼の中にある≪空虚≫を埋められるように。

今も確かに生を刻んでいる大切なこの人の心臓に、自分の心臓を添わせるように。


もう一度雨に濡れた唇をグッとこめかみへ押し当ててきた恋人に応えるように、切なげに微笑んだ名前は腕と指の力をそっと強めるのだった。












Pioggia e Clepsamia
秒針は進み続ける。この世界で彼女だけが知っている、決して迎えたくない≪未来≫へ。



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