※少々グロ表現、注意
「はあ……」
頭上に立ち込めていく暗雲。
それを助長するかのように、暗殺時の服を纏ったままのリゾットは口から寂寥の念を漏らしていた。
眼前には相も変わらず白く光るデスクトップ。
いつもベッドに腰掛け、黙々と何かしら本を読んでいるはずの名前は、そこにいない。
「(名前がアジトを出てから、かなり経つ。心配で仕方がない)」
実は教会へ出かけているのだ。
紫外線をできる限り避けるため、黒を基調とした私服に着替えた彼女が今日の予定を口遊んだとき、当然同行するつもりでいた男が準備をしようと立ち上がれば、≪今日はダメです≫と柔らかな笑顔で即答されてしまったのである。
それから三時間。午後一時。どこかで怪しい輩――ちなみにこのアラサーの言う≪怪しい輩≫とは、おそらく男性全般のことを指す――に絡まれていないだろうか、とリゾットは神妙な面持ちでキーボードを叩いては指を止め、恋人へ想いを馳せるように重いため息を繰り返していた。
「ん?」
こじんまりとしたデスクを前にしばらく葛藤を続けていたが、ふと廊下の外が騒がしいことに気付く。
少しの間逡巡して、もう一度だけ嘆息を吐き出した彼は、パソコンを片手に喧騒の元であろうリビングへ向かうことにした。
「お前たち、どうした」
「あ、リーダー。いや、それが……」
「ははッ! なんかよォ、ペッシが変なモン拾っちまったらしいぜ?」
変なモノ、すなわちビデオテープらしきモノを包んだ茶封筒。
鮮やかな色のソファにふんぞり返ったまま、ニタニタと笑うホルマジオの声音に促され、自然とそれを右手に持つ青年へ赤い目を向ける男。
すると、彼から怪訝を滲ませた視線を感じたのか、ギョッと丸い双眸をさらに丸くしつつペッシが慌てて頭を振るう。
「ごごご誤解っす! ただ玄関のそばに置いてあっただけっすよ!」
「ちょ、それますます怪しいって! 誰かが注文したわけじゃあるまいし……」
彼の弁明に言わずもがなひくりと頬を引きつらせるイルーゾォ。
キッチンへ続くドアにもたれかかったギアッチョも、関心を失ったと言いたげに鼻を鳴らし、肩を竦めるばかり。
一方、大半が≪何を拾ってきたんだ≫と各々顔に呆れを宿し始める中、周りと異なった反応を見せる人物が一人いた。
メローネだ。
「ハッ!? もしかしてもしかして! 前に頼んだ、(名前に似た)黒髪団地妻のAVが届いたのかも! 最初は旦那への申し訳なさでいっぱいだったのに、どんどん自分から積極的になっていくその経過が、ベリッシモ――ブベネッ!」
「ったく、ンなことわざわざくっちゃべってんじゃねえ! おい、リゾット。名前はどうした。部屋で寝てんのか?」
「いや。彼女は教会に行っている(……ん? ではなぜ名前は、私服で出かけたんだ?)」
「……、なら開けてみるか」
それでいいのか。
ぽつり。変態と同じく弟分へ近付いたプロシュートに対して、冷静な感想が胸中に浮かぶも、その団地妻とやらには興味ない。そう独りごちたリゾットはすぐさま踵を返そうとした、が。
「――!」
不意に鼻の奥を掠めた、よく嗅ぎ慣れた匂いにぴたりと足を止める。
知らないはずがない。自分たちにとって、切っても切り離せないモノなのだから。その場にいる誰もが、≪鉄の香り≫に顔色を変えた。
これは――
「血だな」
忌々しそうにギアッチョが放った三文字の言葉。
なぜだろう。ひどく胸騒ぎを覚えたリゾットに、もはや≪確かめない≫という選択肢はない。
「……見るぞ」
怯えるペッシからすかさず受け取ったテープをビデオデッキに入れ、再生してみる――と。
どこかに寝かしつけられた名前が、不安げにきょろきょろと周りを見渡しているではないか。
警戒心ばかりが広がっていた男たちの脳裏に現れる疑問。
「は? ンだこれ。なんで名前が――」
次の瞬間。
全員が、テレビが映し出す光景に言葉を失った。
顔は把握できぬよう編集されているものの、男らしき人物が数回彼女と会話を重ねたかと思えば、その身体をチェーンソーでズタズタにし始めたのだ。
≪血塗れのダンボール≫。≪2年前≫。いくつものキーワードが繋がっていく瞬間を、漠然と、だが確かに悟る。
「ッ」
≪惨い≫。
その一言に尽きた。
微動だにしない躯体とは裏腹に、一つの単語では言い表せない感情。彼らの中でそれらが膨れ上がっては弾ける間にも、苦痛と忍耐が入り交じった少女の叫びがリビングに轟く。
『ぁっ、はぁ、はぁっ……! く、ぁぁあああッ!』
修道服越しの血肉や骨を切り裂く鋭い刃の音。
白を染め、床にぼたぼたと落ちていく赤。
鼓膜を震わす途切れ途切れの息。
苦しげな嗚咽。
「ッ」
無残な姿になっていく名前から目を背けたい。けれども逸らしてはいけない。心中に迷いが芽生えたそのとき、すでに枯れかけていた彼女の声がふと消えた。意識を手放したようだ。
無影灯に照らされて光ったのは、男が手に持つ注射か。
そして数粒の液体を滴らせる銀の先端が、ぐったりと手術台に横たわる少女の柔肌へ食い込んでいき――映像はそこで終わっていた。
「なん、だよこれ」
呼吸をするのも憚られるほど、突きつけられた悲惨な内容。
おどろおどろしい雰囲気だけが、ただ彼らを包む。
「……」
「クソッ……」
室内にただただ沈黙が落ちる中、その空気を裂くかのごとく静かに口を開いたのは、今もテレビに真摯な眼差しを向けたままでいるプロシュートだった。
「ペッシ」
「!」
「……もういい」
よく耐えた――そうした言葉が三半規管を突き抜けるや否や、頬に汗を伝わらせていたペッシが両手でグッと口元を押さえる。
徐々にせり上がる胃液。
「ッ、すいやせん」
浴室に向かって走り去っていく弟分の背中を、黙々と見送る男。
わかっていたのだ。自分たちを蝕んでやまない、怒りと後悔と歯がゆさが交ざり合った感情を。
それを示すように右手でプラチナブロンドを強く掻き乱した彼が、一番重症であろう男の元へ視線を移そうとした、刹那。
「ははッ」
時間、場所、場合。そのどれもに似つかわしくない笑い声が響き渡る。
「何コレ? ボス専属の闇医者か何か知らないけど、そういう奴っていうのはとんだ趣味をお持ちなんだな。ディ・モールト、興味深い! ある意味名前に陵辱まがいなことをしてみせただけじゃあなく、これ見よがしにオレらに送りつけてきて……笑っちゃうよ」
天井を仰ぎ見ながら、喉を鳴らし続けるメローネ。
すると、さすがに諫めなければ気が済まないと思ったのか、少なからず眉根を寄せたイルーゾォがつかつかと彼の元へ歩み寄った。
「いい加減にしろよ、メローネ。そんなこと今は誰も――」
「ホント、悪趣味だよねえ」
「!」
しかしさらりと揺れる髪の隙間から見えたのは、狂気と冷徹を秘めた翡翠の瞳。
彼は彼なりに憤っている。こういうときのメローネほど危ないモノはない――日頃の経験からそう察したイルーゾォは思わず慄き、押し黙ってしまった。
そして、男たちの気遣わしげな目線は、今まで一切反応を見せていない≪あの男≫へと注がれる。
「り、リーダー。あの」
この封筒を手に取ったのは、紛れもなく自分だ。青ざめた状態で帰ってきたペッシが申し訳なさそうに口火を切った、次の瞬間。
いつから開いていたのかわからない。だが誰よりも平静を≪装っている≫リゾットが、パタンとノートパソコンを閉じつつ席を立った。
「少し出てくる」
わずか七文字。
部屋中に走る動揺。
当然、それだけを告げて歩き始める彼に、慌てて詳細を聞こうとするホルマジオ。
「は? 一体どこに――って、もういねェのかよ。しょーがねえなァ」
「ありゃあ相当キてるぜ。にしても隠すなら隠すでもっとちゃんとやれってんだ、新入りじゃあるめえし。……タバコ、一本くれ」
「まァ、そう言ってやんなって。それに俺らも人のこと言えねェだろ? いくら似てるとはいえ、仕事で見るモンとこのクソビデオじゃまったく違うんだからよォ」
「……ハン、まあな」
二人分の体重で沈むソファ。タバコを口端に咥えたプロシュートは、隣がもたらす苦笑を耳に留めながら、悪態を交えた言葉をぽつりと紡ぐ。
あの朴念仁、どこに向かってんだか――まるで男が行くであろう目的地の候補数を示すように、ゆらゆらと二つの紫煙がリビングの空気を揺らしていた。
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