somma 〜42〜

※読書の秋ということで
※短め




夕食後、浴室が空くまではと部屋へ戻ったリゾットと名前は、背中合わせでベッドに腰を下ろしていた。


とは言え、彼らは喧嘩をしているわけではない。

男の手には日本語で記された本が、少女の手には戯曲がある。

そうした穏やかな空気の中、ふと疑問を持った彼はおもむろに口を開いた。



「名前」


「? はい」



響き渡ったテノールに一瞬首をかしげてから、彼女がそちらを振り返る。


すると、あるページを開きながら、少しばかり困惑した表情の恋人が。

どこかわからないところがあるのだろうか――と一人結論に至った名前は、力になりたいと距離が縮む恥ずかしさも忘れ顔を寄せた。



「この単語は、どちらも伸ばして読むのか?」


「あ、これは二つ目だけ伸ばします。どちらも母音を伸ばして読むのは、このページだとこれとこれですね」


「そうか……なるほど」



解決ができたことで、まるで子供のように微かに輝く彼の赤い眼。

その様子に安堵と深愛を滲ませる少女。



「(あれ……?)」



だが、自ずと破顔した彼女の胸中に違和感は残る。


リゾットが前持っていた本において、日本語で母音を伸ばす箇所にはその上に線が刻まれていた。

そう。一つ一つ丁寧に書かれていた――はずなのだ。



「えっと、リゾットさん……」


「ん?」


「あの、少し前までは初心者向けだったのに、どうして突然上級者に変えられたんですか?」


「!」



思わぬ問いに、彼はギクリと肩を揺らす。

しかし、無言というわけにも行かず、脳内議論もままならないままとにかく見切り発車で唇を開いた、が。



「……それは、だな」


「それは?」


「…………気分だ」



気分――ぽつりと呟き、明らかに怪しいと踏んだのか覗き込んでくる名前。

その愛らしさに思わず口付けてしまいそうになるが、今行動を起こせばさらに状況が悪化しかねない。


かと言って、自白という道を選ぶつもりもなかった。



「……(名前に教えてもらう機会を増やしたくて、とは言えない)」


「(じーっ)」



しばらく続いた攻防戦。


少女はずいぶん長い間男を見つめていたが、察したのだろう。

リゾットがかなり頑固なことを、身を以て知っている彼女は、諦めて己の両手に収まった本に視線を戻すことにした。


再び室内に広がる静寂。



「……」


映り込むのは、文字の羅列。


それを目だけで追いながら、名前はこの長閑な雰囲気にふっと思考を物語の内容から現実へと過ぎらせる。



「(……なんだか、すごく幸せ……だな)」



心にもたらされる安穏。

一人では、感じることのできないモノ。


背が捉えた体温が、少女をひだまりに包まれている気分にさせた。

独りでに薄紅色の唇から溢れ出した、届くか届かないかわからないほど小さな声。



「――リゾットさん」


「どうした?」



だが、思いの外すぐに返ってきた反応。

一瞬驚きを見せてから、「聞こえてたんだ……」とはにかむ。


そして――



「『ありがとうございます』」



どうしても伝えたくなった想いを、自分の母国語で紡ぎ出した。



「?」



一方、その単語はわかるものの、唐突すぎる言葉に首をかしげる男。

視界の隅に映る照れ臭そうな彼女の顔を、今度は彼が後ろから覗き込んだ。



「名前、すまない。その言葉の意味はわかるんだが……」


「……ふふ、言いたくなってしまっただけなんです。だから、気にしないでください」



明らかに腑に落ちない様子。

それを一瞥してから、名前は再び紙面へと目線を移す。


続けようと試みた読書。


「……」



ところが、どこまでも連ねられた印字に、訪れてしまった微睡み。

寝てしまうなんて――と自分を叱咤する暇もなく、襲いかかる睡魔に意識を委ねていった。








コテン


その頃、リゾットもまた言及することを諦め、本にあった写真に心を沸き立たせていると、不意に背中へ加わった小さな感触。


「名前?」



ふむ、これがキモノか……清楚でありながら婀娜っぽさもあり、さらに可愛らしい名前のことだ。似合うに違いない。オイラン……これもまたイイ――と脳内におけるイメージを徐々に膨らませていた彼が、ゆっくりと名を呼ぶ。


しかし、問いかけに対する反応がない。

≪もしかして≫という考えを抱えつつ、本を置いた男が振り返れば――



「……、名前?」


「すう……すう……」


「……」




寝ているのか。

小さく笑うリゾット。


すやすやと眠る少女を起こしてしまわないよう、彼は恐る恐る身体ごと向き直り、そっと抱き寄せた。


腕の中の無邪気な寝顔に、自然と口元も緩む。



「名前……、オレは……」


途切れる声。

いや、わざと切ったのだ。


どうせなら、この言葉は直接音に乗せたい――そう思った。


「……ふむ」



しばらくの間考えあぐねた末、優しく紡がれたのは最近必死に覚え始めた≪挨拶≫。




「『おやすみ』、名前」



重力に添って流れる黒髪を梳くようになでれば、彼女が甘えるようにより身体を寄せてくる。

男は、自分の頬がこれでもかと言うほど綻んでいるとは、おそらく気付いていない。


もちろん、仲間に引かれるモノとも。



「んっ……」


「……ふ」



誰かが来るかもしれない。

仕事も、書類も山積みになっている。


だが――今は寝よう。


瞼を下ろしたリゾットは名前を抱く腕の力を強めながら、導かれるようにベッドへと背を預けた。



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