ふと香った濃厚な匂い。
衝動に苦しんでいた名前は、ただ驚くしかなかった。
――そんな……リゾットさん、どうして……!
しかし、開こうとした口を塞ぐ――彼の唇。
「ん、んん……ふ、ぅッ」
伝ってくる、大嫌いで大好きな味。
「はっ、ぁ……リゾット、さ……」
「オレのことは気にするな……ほら」
「んんん……っ!」
美味しいなんて、思いたくないのに――
自然と、名前は男の舌を求めてしまっていた。
「……」
数分後、ふっと彼女の身体の力が抜けたかと思えば、どうやら眠ったらしい。
――顔色も、幾分かよくなったな。
ベッドへ腰を下ろし、優しく名前の頬を手の甲でなでる。
しかし、いまだ少しだけ痛む舌に、わかったことが二つ。
一つ、吸血鬼に血を吸われても即死へつながるわけではない。
今さら考えれば、なんて無謀だったんだとも思うが、こうして生きているのだからよしとしよう。
二つ、これはかなり言いにくいが――
――こんなに、快楽を得てしまうものなのか。
朴念仁と呼ばれる彼でも、人並みの欲はある。
もちろん、吸血による影響もなくはないのだろう。
だが、それ以上にリゾットの心を刺激したのは、何と言っても名前自身だ。
――普段は清純そのものだが、あのときの目……それもまた、いい。
このときの彼の表情と言ったら、おそらく仲間が見れば、皆卒倒すると予測できるほど緩んでいた。
ところが、男は気づいていなかったのだ。
また会いたい――そんな感情が彼を支配し始めていることを。
「こんばんは」
「おや……こんばんは」
日が完全に水平線へ潜った後。
教会を訪れれば、いつも通り微笑む司教。
しかし、その表情には≪驚き≫が含まれていた。
――どうか、したのだろうか。
わけがわからず、ただ司教を凝視することしかできない。
「ああ、すみません。実は名前から――」
その言葉の続きを聞いた瞬間、リゾットは彼女の部屋の扉を叩いていた。
「はい? 司教様、どうかされ――」
「名前」
「!」
大きく目を見開き、ドアを閉めようとする少女。
次の動きを予測していた男は、するりと中へ入り込んだ。
名前はこれまでにないほど焦っていた。
なぜなら、部屋へ強引に押し入った彼の表情は、怒りに満ちているからである。
――ど、どうしよう……このまま≪去りたかった≫のに。
こちらを鋭く刺す視線に、生きた心地がしない。
「……名前」
「は、はい!」
「オレが、いつ嫌いになったと言った?」
「ッ」
そう、リゾットはかなり怒っていた。
司教から聞いたのだ。
名前が自分から嫌われたと思っていると。
そしてさらに――
「ここを去る理由はなんだ」
「……それも、知られてしまったんですね」
悲しげに目を伏せる少女。
男は静かに彼女の言葉を待つことにした。
「今更ですが、私は……吸血鬼です。でも、もともとは普通の人間でした」
「苦手なものは太陽の光。血も……人間でいたいからって理由で、できるだけ飲みたくなくて、自分で作った薬を飲んでいたんです」
あのとき探していたのはそれか――納得しながら、彼が続きを促す。
「私……エジプトから十一年前にイタリアへ来て……行く先々で危なかったこともあります」
「でも、そんなときに司教様が助けてくださって……そのとき誓ったんです。もう、血は飲まないって」
「しかしオレが血を飲ませてしまった……それが、出る理由なんだな?」
できる限り優しく問えば、首を横へ振られてしまった。
「いいえ、リゾットさんには感謝してもしきれないんです……あのとき、察してくれなかったら、貴方を襲ってしまっていたかもしれない」
一番それが怖いんです。
ぽつりと呟き、荷物の入った鞄を握る手に力を込める名前。
「これは……あの香りに堪えきれなかった私の力不足です。だから、ここを出ます」
彼女が立ち上がり、こちらに向かって微笑む。
決意は固いようだ。
「そうか……だが、行くあてはあるのか?」
「…………保証はありませんが、なんとか」
そらされる目。
「名前……いい加減、自分の魅力に気づいたらどうだ」
「? 魅力、ですか?」
彼女の頭上に浮く、はてなマーク。
このままでは、再び夜が明けてしまうだろう。
「……はあ」
漏れるため息。
いや、待てよ――そこでふと思いつく考え。
――ある意味、好都合かもしれないな。
一つだけ、自分が彼女を完全に保護できる場所があるではないか。
もし、名前が吸血衝動に襲われても、自分が駆けつけられるところが。
他の男の血を、飲ませることはなぜか嫌だった。
「自覚できないのなら、オレは君をここから出すことはできない」
「え、ええ!? そ、そんな横暴な――」
「一つ提案がある」
仲間には事後承諾だが、なんとかなるだろう。
ますますはてなマークを増やす名前に対して、リゾットは≪お願い≫という名の≪命令≫を口にした。
「名前。オレたちのアジトへ来ないか」
聞こえる突風の音。
世間は、冬から春へ向かおうとしていた。
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