cinque

ふと香った濃厚な匂い。


衝動に苦しんでいた名前は、ただ驚くしかなかった。


――そんな……リゾットさん、どうして……!


しかし、開こうとした口を塞ぐ――彼の唇。


「ん、んん……ふ、ぅッ」

伝ってくる、大嫌いで大好きな味。


「はっ、ぁ……リゾット、さ……」


「オレのことは気にするな……ほら」


「んんん……っ!」


美味しいなんて、思いたくないのに――

自然と、名前は男の舌を求めてしまっていた。







「……」


数分後、ふっと彼女の身体の力が抜けたかと思えば、どうやら眠ったらしい。


――顔色も、幾分かよくなったな。



ベッドへ腰を下ろし、優しく名前の頬を手の甲でなでる。


しかし、いまだ少しだけ痛む舌に、わかったことが二つ。


一つ、吸血鬼に血を吸われても即死へつながるわけではない。


今さら考えれば、なんて無謀だったんだとも思うが、こうして生きているのだからよしとしよう。



二つ、これはかなり言いにくいが――





――こんなに、快楽を得てしまうものなのか。


朴念仁と呼ばれる彼でも、人並みの欲はある。


もちろん、吸血による影響もなくはないのだろう。


だが、それ以上にリゾットの心を刺激したのは、何と言っても名前自身だ。


――普段は清純そのものだが、あのときの目……それもまた、いい。



このときの彼の表情と言ったら、おそらく仲間が見れば、皆卒倒すると予測できるほど緩んでいた。


ところが、男は気づいていなかったのだ。



また会いたい――そんな感情が彼を支配し始めていることを。








「こんばんは」


「おや……こんばんは」


日が完全に水平線へ潜った後。


教会を訪れれば、いつも通り微笑む司教。



しかし、その表情には≪驚き≫が含まれていた。


――どうか、したのだろうか。


わけがわからず、ただ司教を凝視することしかできない。


「ああ、すみません。実は名前から――」


その言葉の続きを聞いた瞬間、リゾットは彼女の部屋の扉を叩いていた。



「はい? 司教様、どうかされ――」


「名前」


「!」



大きく目を見開き、ドアを閉めようとする少女。

次の動きを予測していた男は、するりと中へ入り込んだ。




名前はこれまでにないほど焦っていた。


なぜなら、部屋へ強引に押し入った彼の表情は、怒りに満ちているからである。


――ど、どうしよう……このまま≪去りたかった≫のに。


こちらを鋭く刺す視線に、生きた心地がしない。



「……名前」


「は、はい!」


「オレが、いつ嫌いになったと言った?」


「ッ」


そう、リゾットはかなり怒っていた。


司教から聞いたのだ。


名前が自分から嫌われたと思っていると。



そしてさらに――



「ここを去る理由はなんだ」


「……それも、知られてしまったんですね」



悲しげに目を伏せる少女。


男は静かに彼女の言葉を待つことにした。




「今更ですが、私は……吸血鬼です。でも、もともとは普通の人間でした」


「苦手なものは太陽の光。血も……人間でいたいからって理由で、できるだけ飲みたくなくて、自分で作った薬を飲んでいたんです」


あのとき探していたのはそれか――納得しながら、彼が続きを促す。



「私……エジプトから十一年前にイタリアへ来て……行く先々で危なかったこともあります」


「でも、そんなときに司教様が助けてくださって……そのとき誓ったんです。もう、血は飲まないって」


「しかしオレが血を飲ませてしまった……それが、出る理由なんだな?」


できる限り優しく問えば、首を横へ振られてしまった。



「いいえ、リゾットさんには感謝してもしきれないんです……あのとき、察してくれなかったら、貴方を襲ってしまっていたかもしれない」


一番それが怖いんです。


ぽつりと呟き、荷物の入った鞄を握る手に力を込める名前。


「これは……あの香りに堪えきれなかった私の力不足です。だから、ここを出ます」


彼女が立ち上がり、こちらに向かって微笑む。


決意は固いようだ。




「そうか……だが、行くあてはあるのか?」


「…………保証はありませんが、なんとか」



そらされる目。


「名前……いい加減、自分の魅力に気づいたらどうだ」


「? 魅力、ですか?」


彼女の頭上に浮く、はてなマーク。



このままでは、再び夜が明けてしまうだろう。


「……はあ」


漏れるため息。

いや、待てよ――そこでふと思いつく考え。


――ある意味、好都合かもしれないな。


一つだけ、自分が彼女を完全に保護できる場所があるではないか。


もし、名前が吸血衝動に襲われても、自分が駆けつけられるところが。


他の男の血を、飲ませることはなぜか嫌だった。


「自覚できないのなら、オレは君をここから出すことはできない」


「え、ええ!? そ、そんな横暴な――」


「一つ提案がある」



仲間には事後承諾だが、なんとかなるだろう。


ますますはてなマークを増やす名前に対して、リゾットは≪お願い≫という名の≪命令≫を口にした。



「名前。オレたちのアジトへ来ないか」


聞こえる突風の音。

世間は、冬から春へ向かおうとしていた。





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