ある島の沿岸部。
どこまでも青く、澄んだ空。
こちらを突き刺してやまない日差し。
爽やかな風の中に含まれた春特有の暖かさ。
「……?」
引いては押し寄せる波のさざめく音が、聞こえる。
それはかつて、≪戻ることは一生ない≫と決めた故郷にどこか似ていた。
「う……ハア、ッ……っグ、ぁ」
ふと届いたうめき声。
静かに視線を落とせば、目前には自分が生成したであろうカミソリと釘を吐き、苦しげに地面へ伏せる少年が。
――≪目撃者≫だろうか。
「うおおおおおおお……!」
「勝ったッ! 頭を切り飛ばす! とどめだ、くらえ『メタリカ』ッ!」
何に勝ったのか、それすらわからぬまま――右手を前に掲げ、喉が張り裂けそうなほど叫ぶ。
そのときだった。
「――!」
「……え?」
紡がれた己の名前。
視界の端に映った、細身の影。
黒い傘がふわりと虚空へ舞い上がる。
徐々にこちらへ近付いてくる、機銃音。
刹那、自分の背後に現れたのは――
「――――」
声にならない声。
己が放ったそれに、リゾットはこれでもかと言うほど瞠目した。
汗ばんだ皮膚。
それを纏う深夜の空気。
起き上がった上体だけが捉える肌寒さ。
「はぁ、っ……はぁ、はッ」
呼吸はひどく乱れている。
何も考えたくない――ベッドに置かれていた右手で、狼狽に満ちた黒目がちの瞳を覆おうとした瞬間。
「リゾット、さん……?」
「!」
寝ぼけ気味の、だが凛とした音が鼓膜を揺らした。
慌てて顔を左隣へ移せば、掛け布団をふくよかな胸元に手繰り寄せ、のそのそと身体を起こした――愛しい少女が己を見上げている。
ゆっくりと開かれる唇。
「ッ……名前、?」
「? はい」
その、≪確認≫を含んだ問いに、首をかしげながら名前はコクリと頷いた。
月明かりに似合う、控えめな微笑み。
「……」
彼女がここに、自分の傍にいる。
かけがえのない事実を実感した彼は、おもむろに左腕を伸ばし――
「きゃっ」
「名前、名前……ッ」
心を占めた安堵に従うまま、一糸纏わぬ姿の少女を掻き抱いた。
「あ、えと……リゾット、さん?」
突然のことに目を丸くし、身を強ばらせていた名前。
だが、必死に己の名を呼び、頸部へ顔を埋めた男に、ただ事ではないと悟ったらしい。
肌と肌が触れ合っている恥ずかしさを心の奥底に抑え込んだ彼女は、柔らかな色を帯びた銀の髪へ静かに手を添える。
「辛い夢を、見られたんですね……」
どのような夢だったかはわからない。
けれども――
せめて少しでも、≪その悲しみ≫を消せたら。
なでなで。
動かされる手のひら。
それに応えるかのように、自分を拘束する力はより強まっていた。
しばらくして、解放される身体。
心配を交え少女がおずおずと顔を上げると、二つの赤がこちらを見つめていた。
その眼には羞恥が見え隠れしている。
「……恥ずかしいところを、見せてしまったな」
「ふふ、いいんですよ? 辛くて悲しいことは誰にだってあります……リゾットさんも、どうか隠さないでください」
「名前……」
溢れる慈愛。
自分を捕らえて離さない≪美しい紅≫に誘われるように、リゾットはコツンと額を名前のそれに寄せた。
「……名前は」
「はい」
「普段、どんな夢を見ているんだ?」
「夢、ですか?」
きょとんとしつつ、「夢、夢……」と彼女は考え込む。
――うーん……私、最近どんな夢を見て……あ。
そして、何か結論が胸中に現れたのか、おもむろに口を開いた。
「えっと……昔、知り合いの息子さんにお会いした時のことが夢に……」
「息子?」
「はい。イタリアに住んでいる男の子です」
忘れるはずがない。
なぜなら――≪彼≫に会うことがエジプトからここ、イタリアへ来る目的の一つだったのだから。
――もう十五歳になるんだよね……全然会いに行けていないけど、元気かな。
一方、少女の懐かしむような表情に、彼は眉間のしわを一本増やす。
「(知り合い……かなり気になる。だがそれより)……情けないな、オレは」
「え? ……んっ」
問い直そうとした刹那、男の唇に上唇を食まれ、大げさに肩を震わせた名前。
それに満足気な笑みを浮かべてから、リゾットは≪彼女のことをあまりにも知らない自分≫を嘲った。
「っ、ぁ……リゾット、さん?」
「……今の名前が、大切なんだ。けれども同時に、君の口からオレの知らない過去を聞くと……ひどく焦燥してしまう」
どこまで欲張りなのだ、自分は。
しかし、少女はそんな己を蔑むばかりか、にこりと破顔したではないか。
「確かに、過去は変えられませんけど……私の今と未来はすべて、リゾットさんが……、……その、っリゾットさんのモノに……して、くれるんでしょう?」
「ッ! …………名前、そんな風にオレを煽るなと何度も言っているだろう」
「えっ!? あ、煽ってなんかいません……! 思ったことを言っただけですっ」
その発言が煽っているということなのだが、無自覚にも程がある。
――嬉しいことを言ってくれる……本当に止まらなくなりそうだ。とは言っても、元から止める気もないのだが。
喜びで緩む頬。
そして、不満そうに尖らせた名前の唇をあっという間に塞ぎながら、彼はまだ二人の体温が残るベッドへそっと彼女を押し倒した。
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