葉の隙間を通り抜けていく少し冷たい風たち。
それは、季節が夏から秋へ、そして空が赤から紺へ変わる頃のことだった。
「名前」
「?」
「少し……これから出かけないか」
ある日曜日の黄昏時、部屋を出ようと足を踏み出した名前の背に、リゾットがぽつりと声をかけたのは――
「え? ここって……」
数十分後、彼に手を引かれるがままついてきた少女の視界には、自分がかつて過ごしていた教会が佇んでいる。
目を瞬かせる彼女に対し、ふっと微笑んだ男は荘厳な扉を空いている片手で押した。
ギイイ
懐かしいドアの軋んだ音。
どこまでも高く、天井を支えているいくつもの柱。
修理が必要なのでは、と司教とよく話していた椅子。
足音が容易く響いてしまう、小さな聖堂。
人ひとりいない――二人だけの世界で、名前はただただ周りを見渡し、リゾットが出かけると言った真意を探り続けていた。
「……」
「……」
支配する静寂の中、一番前の座席へと腰を下ろす。
手はすでに離れたものの、二人の距離はこれまでにないほど近い。
だが、心が読めない。
「……あの、リゾットさん」
「ん?」
何か。
何かを話さなくては。
妙な焦りだけが彼女の心に募っていく。
いつも以上に緊張する空間に馴染めるよう、少女はぎゅっと両手を胸の前で握りしめ――
「えっと……ここのステンドグラスは、この辺りでは有名らしいですよ?」
気が付けば、突拍子もないことを口にしていた。
「……これのことか?」
「は、はい」
なんの話をしているのだ、自分は――そう叱咤しながらも右隣へ笑みを向ければ、ステンドグラスを見上げる彼の横顔に思わずドキリとしてしまう。
心の空白。
月光を浴びることでより暗さを帯びる赤の瞳。
その視線の先を追うように、名前も青、オレンジ、緑――とさまざまな色の光彩を放つ装飾へ目を向けた。
「その、司教様から聞いた話なんですけど、これは虹を模して造られたものらしくて。何度見ても、綺麗……」
不意に呟かれた言葉。
そこで、ようやくリゾットが首を横へ動かす。
初めてここへ来たときは、このステンドグラスを直視できなかった。
≪陰≫に生きている身であることは、今も変わらない。
――だが、名前と共になら……。
せめてお礼を言いたい。
そう思い、瞳をきらきらと輝かせているであろう少女の方を振り向いた瞬間――
「ッ!」
「……えっ?」
彼は、斜め上へ手を伸ばす彼女の右手首をしっかりと掴んでしまっていた。
――行くな。
そんな焦燥を胸に焦がして。
「? り、リゾットさん?」
「……すまない」
動揺を潜めた声に、男がハッとして己の手の力を緩める。
しかし、どうしても離すことはできなかった。
心配そうにこちらを見つめる深紅の瞳。
答えることもできぬまま、再び沈黙が漂うかと思われた、が。
「出逢ったときから、なんだ」
「……、はい」
次にそれを破ったのは、意外にも嘲笑をこぼしたリゾットの方だった。
小さな返事を耳で捉えながら、先程眼に焼き付いた光景を思い出す。
月影が映した名前の姿を。
それは――天に飛び立つことを今か今かと待つ、清らかな天使のようで。
「オレにとって……名前は遠すぎると、ずっと感じていた」
天使が、聖女が、名前が消えることを≪恐れ≫た。
だからこそ、脳が命令を出すより先に少女の細い手首を強く握りしめた。
まるで白く気高い羽を毟ってしまうかのように。
「……いや、今も感じていると言った方が正しいのかもしれないな」
どれほど一つになろうとしても、なりえない現実。
行為を重ねた後の夜更け。瞼を閉じ、己の意識を底へと沈ませるたび――不安になった。
明日も、自分の腕の中に彼女は居てくれるだろうかと。
「……ふ」
心を占めるのは自嘲。
これまで何十人もの命を奪っておきながら、なんてザマだ――そう胸の内で呟いた刹那、指が行方を見失う少女の感触。
「!」
しかし、次の瞬間。
リゾットの左手を、ふわりと名前が両手で包んだ。
驚きで目を見張る彼に、彼女はただただ微笑を浮かべ、おもむろに唇を開く。
「なら……リゾットさんは、知っていましたか?」
「え?」
「リゾットさんが、私の≪ヒカリ≫だってこと」
「――」
何を言い出すのだろうか。
ぬくもりを確かに感じつつ、いぶかしげな表情をする男。
光なんて、自分に一番似合わない言葉ではないか。
一方、彼の反応を予想していたのか、少女は顔を綻ばせたまま音を紡ぎ続ける。
「そのヒカリは、視界を奪われてしまうほど眩しくはないのかもしれない」
「それでも……たとえそうであっても」
「暗闇を生きてきた私にとっては……大切な、一筋の灯なんです」
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