今日締め切りの企画書提出の為、パソコンに向き合うこと数時間。最後の一文を打ち終えたところで、ホッとひとつ息を吐き、長時間同じ体勢を取っていたことですっかり凝り固まった身体を解そうと背を反らし、「うーん」と大きく伸びをした。弓なりになった体の節々からバキバキと何とも小気味良い音が鳴る。一体何時間くらい経ったのだろうか、時間を確認しようと壁に掛けられた時計を振り仰ぐ。と、向けた視線の先にうっすらと白く染まる窓が見えた。靄が掛かったように白くなった硝子は、室温と外気温の差が激しいことを知らせている。今日も時間ギリギリに家を出たので天気予報など見てもいないが、暖かな部屋から一歩外に足を踏み出した今朝の、ふるりと身体を震わせる程の寒さを思えば、きっと昼を回った今でも外では肌に突き刺さらんばかりの寒風が吹き荒れているに違いない。
(――あぁ、お昼どうしよう)
いつもならば出社前にコンビニに寄り、適当にその日の昼食を調達するのだが、今日は早朝会議だというのに遅刻するか否かのギリギリの時間を彷徨っていたので、コンビニに寄ることなどとても出来なかった。とは言え、そのときは「あぁ、昼休憩の時に買いに行くなり食堂で食べるなりすればいいや」と呑気に思っていたのだが、今となってはそれならばせめて家から何か持ってくれば良かったとさえ思っていた。早朝会議のことやら企画書のことやらで頭が一杯ですっかり失念していたが、よりにもよって今日は業者の点検が入るとか何とかで社内の食堂が休みだったのだ。故に手っ取り早く社内で昼食を済ませることが出来ず、昼食を求めるなら社外へ赴かなくてはならなかったが、この寒い中、わざわざ暖かな空間を抜け出して外へ身を投じる気になどなれる筈もない。でも、寒いと思っているだけで実はそんなに寒くなかったりして。一縷の望みを掛けるよう、ちょうどパソコンを開いていたのを良いことに今日の天気を調べてみれば、本日の最高気温は5度を大きく下回っていた。寒さに強くない、どちらかといえばすこぶる弱い身体からすればその気温はとても耐えられたものではない。しかも気温を正しく認識してしまうと、より外に出ようという気力が削がれてしまう訳で。どうしようか、と盛大に溜息を吐き、栄養補助食品の買い置きは無いものかと机の引き出しの中を探ろうとしたところで、ふと背後から声を掛けられた。
「律っちゃん」
男性のものにしては少し高めの声にビクリと肩を揺らし慌てて振り返ると、そこにいたのは30歳を過ぎた今でもとてもそうとは思えないほど可愛らしい顔をした先輩だった。というか、自分を『律っちゃん』と呼ぶのはこの先輩くらいなのだから、振り向かずとも呼ばれた時点で誰かは判断出来ていた。が、反応しようにも何と呼んだら良いのか分からず、
「…あ、えっと、」
生まれた戸惑いが声を言葉を詰まらせ、結果出せたのは何とも間の抜けた声だけだった。やはり適切な呼び方が分からないというのは円滑な会話に僅かながらもヒビを生じさせる。
「あれ、お昼ご飯食べないの?」
「あー…ちょっと朝コンビニに寄れなかったので、これから買いに行こうかなー、なんて」
「…外、すっごい寒いよ?いま作家さんのネーム原稿受け取りに行って来たんだけどさ、もうすっごい寒くて寒くて。ガタガタ身体震えたもん」
「ですよねー…」
外がいかに寒いかはたった今その寒風の中を潜り抜けて帰ってきた先輩の姿を見れば一目瞭然だ。暖かな空間へ戻ってきても一向に赤みのひかない頬や耳が寒風の冷たさを暗に示している。…さて、どうしたものか。このあとの仕事の為にも何かしらお腹の中に収めておきたいところだが、外に出て何か調達してこないことには食べることは叶わない。表面上はにこやかに、内心ではうんうん唸っていると、外に出たくないという感情がうっかり表情にまで出てしまっていたのだろうか、
「……ええと、俺さ、昼食がてらみんなで食べようかと思ってちょっと多めに買ってきたんだけど、何かみんな居ないみたいだし、良かったらふたりで食べない?」
手にしていたビニール袋を目線の高さまで持ち上げ、コトリと首を傾げながら告げられた言葉は今の自分にとっては有り難いことこの上ないものだった。ビニール袋に印字してあるロゴを見るに、大通りに新しく出来たばかりのパン屋のものだろう。作家さんから「凄く美味しい」という話を聞きつけ、いつか食べたいねーといったことを話していた記憶がある。ただそれを話していたのが絶賛修羅場中だったため今の今までその存在をすっかり忘れていたのだが、どうやらこの先輩はしっかり覚えていたらしい。袋から微かに漏れるパンの香ばしい匂いが腹の虫を刺激する。思っていたよりも空腹を覚えていたのか、今にもぐうと鳴りそうだ――と思った瞬間、大きくはないがけして小さくもない音量でお腹が鳴った。思いがけないことにひゅうと息を詰める。聞こえていなければいい、そう思うも自分の耳にも届いているのだから、眼前の先輩の耳に届いていない筈がない。あああ…と内心項垂れつつチラリと視線だけでその表情を窺えば、愛らしい顔立ちの先輩は大きな目を零れんばかりにまんまるくしていた。またからかわれてしまうのだろうか。あまりの恥ずかしさに顔がぶわぁと一気に赤く染まる、も。返って来たのはからかいの言葉なんかではなく、軽い笑い声だった。





「てかさー、律っちゃん」
「…はい?」
「…もしかして、さっきさ、俺の呼び方とか考えてた?」
「―――え、」
ビニール袋から取り出したパンを無造作に机に広げ、「どれがいい?」なんてやり取りを交わす中、ふと思い出したように投げ掛けられた問いに、パンへと伸ばそうとしていた手がピタリと止まる。あ、やばい。これでは肯定しているのと同じではないか。しかし、否定しようにも正しくその通りなのだからどうしようもない。嘘を吐けず心情をありありと顔に刷いたまま硬直していると、真っ正直なさまが可笑しかったのか、けらけらと悪戯に声を立てて笑われた。
「あっはは!律っちゃん、分かりやすすぎー!!」
「――っ木佐さん!!」
隣はおろか奥の部署にまで聞こえてしまいそうなほど大きなそれに思わず声を上げると同時、「しまった」と思う。しかし一度発した言葉を取り消すことなんて出来ず、窺うように髪と同じ艶やかな彼の人の黒瞳に視線を合わせた。どうしよう、どうしよう。だって、もう、彼は。ぐるぐると思考を巡らせては半ばパニックに陥る自分を余所に、眼前のそのひとは静かに目を細め、唇の端を上げて笑った。
「…うん、そう。俺は、『木佐』だよ」






―――木佐さんが、結婚した。



未だ高校生と見間違われるくらいの童顔の持ち主とはいえ、もう30歳だ、結婚したとしても全く不思議ではない。むしろ凄く自然なことだと思う。その結婚相手が男性だというのも、長い期間を経て昨年の末にようやく同性婚が法制化されたことを思えば少しも可笑しくはない。そう、可笑しくはないのだが。如何せん、その報告というのが実に可笑しかった。
「…あ、俺、結婚したから」
何かと突飛な発言をする先輩はこんなときも「今日は随分と暖かいですね」と世間話をするかの如く実にあっけらかんとした口調で報告した。しかも『結婚する』ではない『結婚した』だ。未来形ではなく完了形で伝えられたそれは正しく事後報告というものだった。一般的に言えば随分と可笑しいことだろう。事実、常ならばこの手の話題ともなればこぞって漫画のネタにしようと質問攻めを喰らわせるエメラルド編集部の面々が、揃いも揃って見事にポカンと呆気にとられた表情を浮かべたままフリーズしたのだから、その可笑しさはよっぽどのことだと思われる。そうだ、世間一般、社会通念上では先に報告あっての結婚だというのに事後に報告されることがそもそも可笑しい。さほど親しくない仲ならばそれもごくありふれた事象なのだろうが、木佐さんと自分たちは苦楽を共にしてきた仕事仲間だ。ここ数年だけで言えば親兄弟、恋人よりもずっと長い時間を共有してきた仲だというのに、そんな自分たちに事前報告もなく結婚するとはとても思えず、『結婚』と言われても俄かには信じられなかった。しかもその発言をしたのがちょうど修羅場突入3日目だったものだから、みんながみんな「これは修羅場で疲れた木佐の冗談だ」といともあっさり思考を放棄させたのだが、一向に「なんちゃって」と冗談を匂わせる言葉が返らなかった。そこでようやく、もしかして冗談ではないのかもという考えに至り、マジなのか、と編集長さまが尋ねれば何を今更といった風に木佐さんは肩を竦めてみせた。「いくらなんでもこんな冗談を言ったりしないよ」唇の先をほんの少し吊り上げて笑う顔はやはり冗談を言っているとは到底思えない穏やかなものだった。
「…木佐さん」
「うん?」
「……結婚相手、ってどんなひとなんですか?」
気になること、聞きたいことは多々あったが、一番はやはりこれだろう。浮いた噂など聞いたこともない木佐さんがどんなひとを生涯のパートナーとして選んだのか。木佐さんの結婚が真実と知るや怒涛のように質問する先輩らに混じって素直に疑問をぶつければ、木佐さんは一度ゆっくり瞬いた目を猫のように細めて微笑った。
「―――そのうち、分かるよ」



木佐さんの結婚相手が顔面偏差値が高いと言われる丸川書店内でも特に綺麗な顔立ちだと主に女性社員から褒めそやされている経理部の朝井さんだと知るのは、それから間もなくのことだった。






「…でも、本当にいいんですか」
「――へ、何が?」
「ですから、…呼び方。『木佐さん』でいいのかな、って」
「いいも何も俺は間違いなく『木佐』だからねぇ」
「そうじゃなくて。だって、その、ほら、…新婚さんですし」
口にするのも恥ずかしく、知らずと語尾が小声になってしまったが、それでもこの距離だ、聞こえない筈は無いだろうに何故だかきょとんとした顔をされた。しぱり、と何度も目を瞬く姿に、あれ、おかしいこと言ったかなと思わず首を傾げれば、木佐さんは舌の上で転がすように繰り返し『シンコンサン』と何度も呟いていた。常々流暢に話す彼らしからぬ片言に近いそれはロボットのようにさえ思え、何だか新鮮なものに映る。まじまじと見つめれば、そこでようやく合点がいったのだろう、木佐さんは間延びした声の後、ふ、と息を漏らして淡く微笑った。
「…あー、新婚さん。新婚さん、ね。何か似合わなさ過ぎてビックリした」
「――――」
…こんな笑い方をする人だっただろうか。元よりよく笑う人で、笑顔などはそれはもうたくさん目にしてきたけれど、いつもはその老いや年齢をどこぞに置き忘れてきたのでは、と思う程あどけなさを大いに残した顔をこれでもかと喜色いっぱいに染めて声を上げて笑う姿ばかり見てきたものだから、こんな風に幸せをそっと口元に忍ばせてほろほろと花綻ぶように微笑う姿は、欠片も知らない。でも、木佐さんがこんな表情を浮かべるようになったのもきっと結婚相手のおかげ、なのだろう。柔らかなそれを見れば、『似合わない』だなんて到底思える筈も無い。むしろその逆だ。けれど否定の言葉を口に上らせる前に淡い微笑みは仕舞いこまれ、「つーかさ、」と軽やかな声が掛けられた。跡形も無く儚く消え去ったそれを勿体無いと思ったのは何でだろうか。
「『木佐』の方がややこしくなくていいでしょ。確かに公に出す書類では名字が変わったけど、職務上では『木佐』で通すつもりだし。それに、新しい名字で呼ばれるのも名前で呼ばれるのも何か気恥ずかしいからさ。今まで通り呼んでくれると俺としては嬉しいんだけど」
「……木佐、さん」
「うん。大体さー、『朝井さん』なんて呼ばれても絶対反応出来ないと思うんだよね」
「…そうなんですか?」
「そうそう。『朝井さん』っていうとどうしてもあの人を思い浮かべちゃうからさ」
律っちゃんもそうでしょ?そう尋ねる木佐さんはきっとその脳裏に『あの人』のことを思い浮かべているのだろう。口元にゆるりと滲んだ微笑は先程惜しく思ったばかりのそれと寸分違わぬものだった。
『朝井』とは木佐さんの新しい名字だ。同性異性問わず、今では結婚時に夫婦別姓の形を取ることが認められているが、多くの同性婚者がそうであるように木佐さんもまた愛するひとと名字を同じくする方を選んだ。いくら同性同士の婚姻が認められ、寄り添いあって生きることが公に許されるとしても次代へ繋ぐ新しい命を生み出すことは出来ない。ふたりが生涯のパートナーであることの唯一の証明は薄っぺらな紙、ただそれだけだ。だから、少しでも目に見える形でふたりの関係を示したいと思った結果が「せめて名字だけでも」ということらしい。以前木佐さんから聞いた話を何となく思い出しながら、「確かに」と返事をすべく口を開こうとしたところで、
「…じゃあ、『奥さん』って呼んでやろうか?」
不意に頭上から自分でも木佐さんのものでもない声が降ってきた。耳慣れたその声に、木佐さんと目を合わせ慌てて振り返れば、入り口部分にちょうど話題に挙がっていたひとが立っていた。あまりのタイミングの良さに思わず驚き混じりの声が上がる。
「―――朝井さん!!」
目を見開いて凝視する自分たちに対して「おー」と片手を挙げて応える朝井さんは何をするでもない、ただ立っているだけなのに、少女漫画に出てくる王子様よろしく背後に薔薇を背負っているかのように見えてしまうのは、その整った容姿のためだろう。美形が多いと誉れ高いエメラルド編集部に在籍していることもあって、こと『美形』と相対するのは慣れているが、同僚らとはまた違う美形っぷりに知らずと目が留まる。いや、美形だからというよりはその口元に添えられた柔らかな微笑に目が惹かれたのかもしれない。というのも、朝井さんは西洋人形のような、どこか透き通った綺麗な顔立ちながら滅多に微笑わないため、密かに女性社員の間で『クールビューティー』と呼ばれていた。しかし、木佐さんと結婚して以降、手のひらを返したかのように頑なだった表情を柔らかなものへと変化させたのだ。それは女性だけでなく男性社員の間でも大きな衝撃として駆け巡り、かくいう自分もそのひとりだった。尤も、木佐さんに言わせれば「逆に今までの方が不自然だったんだよね。あのひと、家ではいっつも微笑ってたし」とのことだが。そんな今となってはすっかり見慣れた微笑は、だがしかし木佐さんに対してはどこか甘やかさが滲んでいた。現にいまも木佐さんに向ける眼差しはたったひとりの愛するひとに向けるそれだった。むしろ話している内容も相まって、眼差しだけでなく声も甘い気がする。
「…つーか、お前さ、いつまで『朝井さん』呼びなの」
「だってずっとそう呼んできたし…」
「言っとくけど、お前だって『朝井さん』なんだからな?」
「…っ分かってるよ!でも仕事中に名前で呼ぶのも変じゃん!」
「結婚してんだから別にいいと思うんだけど――って、何?仕事中じゃなかったら名前で呼んでくれんの?」
「〜〜〜っ!」
「あ、あの、朝井さん。何か用事があって来られたんじゃないんですか?」
別にふたりの邪魔をしたい訳ではないが、真っ赤な顔をして黙りこくった木佐さんを見ていると何となくそうした方がいいと思い、ふたりの会話に割って入る形で用件を問えば、元よりからかい半分だったからだろう、朝井さんは特に気分を害した様子を見せず、「あー、そうそう」と手にしていた書類を差し出してきた。
「ほら、新刊の売り上げデータが何でかうちの資料に混じってたから届けに来たんだよ」
「―――?」
何で経理部の資料の中に混じっているのだろうか。疑問符を飛ばしながらも「ありがとうございます」とお礼を言って、差し出されるまま反射的に書類を受け取り、ザッと内容を確認すると、確かにそれはエメラルドの今月新刊分の売り上げデータだった。一度窘められてからは新刊がどれくらい購入されているかなど、不用意に本屋で売り上げ具合をチェックすることはなくなったが、それでも今月は自分の担当している作家さんが初めてコミックスを出しただけに、売り上げはどうだろうとずっと気になっていた。故に許されるならば今すぐにでもチェックしたい気持ちに駆られたものの、朝井さんのいる手前そんなことは出来ず、すぐさま書類へと落としていた視線を上げた。途端、ジッと大量のパンが置かれた机を凝視している朝井さんの姿が視界に映る。
「?どうかしました?」
「…いや。これ、どうしたの」
「あ、それ、木佐さんが買ってきてくれたんです」
「…なに、昼食?」
「あ、はい」
「――ふーん」
…何だろう。気のせいかもしれないが、どことなく含みがあるように聞こえる。パンがどうかしたのだろうか。紫紺の瞳を細め、再びパンへと視線を落とす朝井さんに首を傾げる。と、木佐さんがおずおずと遠慮がちに朝井さんに声を掛けた。――が、朝井さんは、
「…そうだ。翔太、あれ、見た目に反して結構美味かった」
ゆるりと口の端を上げて悪戯に微笑い、木佐さんの言葉に被せるように言葉を紡いだ。何のことだろう、そう思うより早く木佐さんの顔がボンッと真っ赤に染まる。
「―――っ!!」
「…木佐さん?」
「お、俺、飲み物買って来る!!」
時間が経過してようやく頬の赤みが引いたばかりだというのに、再び耳や首まで真っ赤に染め上げた木佐さんは動物もかくやという物凄い素早さでその場から走り去った。飲み物ならばわざわざ買って来ずとも机の上にはパンに合わせて木佐さんが購入してきたと思われるペットボトル入りの紅茶が置いてあるというのに、一体どうしたのだろうか。先程のやり取りから察するに、一因とはいかないまでもきっと朝井さんは何か知っている筈だと踏んで、「…木佐さん、どうかしたんですか?」と問えば、朝井さんは亜麻色の髪をくしゃりとかき混ぜ、事の経緯を教えてくれた。
「…今日、あいつ弁当持ってきてなかっただろ?」
「……はい、」
「いつもはさ、俺が朝食やら弁当やらを作ってんだけど、昨日は珍しく残業でクタクタになって帰ったから、翔太なりに気ぃ遣ったんだろうな。目覚まし止めて、翔太ひとりで慣れない料理を作ったら、案の定失敗したんだよ。でもそれを食べて処分してしまうには時間が無かったらしくて、とりあえず調理器具だけ洗って家を出た、と」
「うわぁ…」
実際に木佐さんが料理をしている姿を見た訳でも無いが、容易にその様子が想像ついてしまうのは、自分も同じく料理を苦手としているからだろう。しかし結果として失敗したにしても、早朝会議があるというのに早起きをして朝井さんの代わりに料理をしようと思ったことが既に凄いと思う。自分ならばとても出来ない。しようとも思わない。今日だって食事よりも睡眠だ、と時間ギリギリまで寝ていたくらいだ。でも、例えば、そう。例えば作る相手が高野さんだったらどうだろうか――脳内で仮定しようとした時点で「いやいや何でそこに高野さんが出てくるんだ!」と頭を振って、傾きかけた思考ごと慌てて掻き消した。
「まぁ、失敗したと言っても味は普通に美味かったんだけど。ただ見た目がアレだったから、こんなの食べさせられないとでも思ったんだろうな。『帰ったら処分するから食べないで』って書かれた紙が置いてあったんだよ」
「仕方ないな」と言わんばかりにたっぷりと蜂蜜を塗りたくったような微笑を浮かべて話す朝井さんは、淡々とした話し振りに反して何とも幸せそうだ。そのオーラのようなものにつられて自分もまた唇がふわりと綻ぶ。
「…あぁ、それは、」
(――それは、なんて、)
「…かわいーだろ?」
「――そう、ですね」
「つっても、あげねーけどな?」
「わ、解ってますよ!!」
てか、そんなこと思ったこともありません!!からかわれているのだと思いながらも万が一誤解されてしまうのも困るからと強調するべく殊更強い口調で言い切ると、何が面白かったのか、ククといつもより半音低い声で笑われた。朝井さんといい高野さんといい、どうして俺の周りにはこんなひとが多いのか。そっと小さく頬を膨らませていると、一頻り笑った朝井さんが俺を宥めるようにくしゃりと頭を撫で、ひとつ大きく伸びをした。
「…じゃあ、そのかわいー嫁さんを迎えに行って来るかな」
あ、そのパンプキンパイは残しといてやって。あいつの好物だから。愛しいお姫様を追いかけるべく背を向けた朝井さんはそれだけ告げて、挙げた左手をひらひらと振った。その薬指には艶やかな光沢を放つ、シンプルなデザインのシルバーリングがはめられている。木佐さんと同じそれに目元を柔らかく緩め、朝井さんのスラリとした後姿を見送ると、机の上に広げられたパンの中からいかにも甘そうな、生地の間からひょっこり林檎が顔を覗かせているデニッシュを手に取った。もう少しすれば、この林檎のように頬を赤く染めた木佐さんが帰ってくるだろう。林檎をふんだんに使用したシナモンの香り漂うデニッシュに齧りつけば口いっぱいに林檎の甘酸っぱい味が広がる。幸福の味とは、きっとこんな味だ。幸せなふたりに感化されるように少女漫画みたいなことを考えた自分に思わず苦笑が零れた。









2011.12.17





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