「……しょーた」




焦点の定まらぬ紫紺が木佐の姿を捉えた瞬間、ゆるりと細まり、唇が柔らかな弧を描く。
花の綻ぶ、という表現は少女漫画でもよく耳にするけれど、現実世界でそれを見られるとは思わなかった。
自分だけに向けられる刺の無い優しいだけの微笑は、愛しさに溢れていて、見る度に錯覚しそうだと思う。




「―――」

「…しょーた?なに??」




(――朝井さんに、愛されてる、なんて)




「…なんでもない。
おはよ、朝井さん」

「…おはよ。んー……お前、いっつも起きんの早いな。何、そんな腹減ってんの??」

「――そーだよ。もうお腹ぺっこぺこ。昨日、あんなに朝井さんが激しくするから!!」

「…煽ったのはそっちだろ??あんな顔されりゃ、優しくしろっつー方が無理」




変わらないやり取りに安堵し、木佐は思わず小さく息を吐く。
――本当は。
お腹が空いてる訳でも何でもなくて、ただ。
ただ、朝井さんが起きぬけに一瞬見せる、いつもより綺麗で優しくて、まるで自分を愛おしいとでも言うように柔らかく微笑う姿が、見たいだけ。
――なんて、そんなこと、言える筈もなく。
ともすれば顔を出してしまいそうになる感情を、木佐は心の奥底にぎゅっぎゅと押し込んで、上からしっかり蓋をした。
知られてはならない、気付かれてはならない。
――気付いては、ならない。
そうして、隠した感情の先にある確かな想いから目を逸らし、必死に素知らぬふりをして。
今日もいつものように、笑うのだ。




「…もー!!いいから、朝井さん、ご飯作って!!お腹空いたー!!」




*****




「……翔太、」



(…何で、そんな甘い声で俺の名前を呼ぶんだよ)




砂糖を目一杯溶かし込んだような甘やかな声で、朝井は繰り返し木佐の名前を呼ぶ。
耳元に顔を埋められ、囁くように紡がれるから、朝井がどんな顔をしているのか、木佐には分からないけれど、顔が見えなくて良かったとも思う。
これで愛おしげな表情、眼差しを向けられてしまったら、恋を知らない自分は単純にも錯覚してしまうだろうから。
朝井に愛されてる、なんて。
そんなことは、有り得ないのに。



「…翔太、翔太」



名を紡ぐ度に甘やかさを増すそれに、言いようもない幸せと胸を刺す痛みを感じながら、木佐はふるりと身体を震わせる。
愛撫されている訳ではない、ただ名前を呼ばれているだけ。
けれど、普段とは全く違う愛おしさをぎゅっと詰め込んだ甘い声に木佐の身体は知らずと反応し、何度も身体をよじった。




(――耳から犯されてる気がする)




甘い声に支配され、霞みがかる思考の中、そんなことを不意に思いながら、木佐はまたひとつ落とされた声に身体を揺らし、背を反らして甘く啼いた。




*****




それは、ふとした思い付きだった。




「――名前、」

「……ぅあ…っ、…え、な、に、」

「――俺のこと、名前で呼んでみろよ、翔太」




そうしたら、お前が欲しがってるモンをやるよ。
いつものように朝井の部屋で肌を合わせる最中、不意に愛撫する手を止め、木佐が好きだと言う綺麗な笑みを浮かべてそう言えば、木佐は困ったように眉間にきゅっと皺を寄せた。
どうすべきかと戸惑っている間にも、爪先から頭のてっぺんにかけてじわりと這い上がる快感を何とか逃そうと、身体を震わせながら内股を擦り寄せる木佐の姿は何ともいじらしく、視覚的にも非常にそそられる。
けれど朝井は眉ひとつ動かさず、木佐の行動を見守っていた。
別に、呼び方にこだわっている訳では無い。
今更名前ひとつにこだわる程若くもないし、それ以前に、朝井はそもそもそういった恋愛している者特有の甘やかな感情を抱くことが無かった。
沸き上がる欲さえ満たされればそれで良い、――常にそういった思考が朝井の内にあったから、女性と付き合うことになっても、デートだの何だのいちいち彼女のご機嫌取りのようなことをしなければならないことが酷く鬱陶しく、結果、いつも長くは続かなかった。
長くて三ヶ月、短ければ一週間と持たず、別れたことを告げる度に、付き合いの長い柳瀬からチクチクと小言を言われていたことを思い出す。
だから、経験だけはありながら、まともに恋愛をしたことの無い朝井は、最近の自分の感情の変化に少しばかり戸惑っていた。
欲を満たす為だけではなく、ただその円やかな肌に触れたい。
抱きしめたい。
口付けたい。
そして、いつしか、――あぁ、もしもこの甘やかな唇から自分の名前が告げられたならば、それはどんな気分なんだろうか、と不意に朝井は思ったのだ。
それは単なる好奇心。
それ以上でもそれ以下でも無く、何なら、あまりに嫌がるのならば、別に名前で呼ばれずとも構わないとさえ思っていた。
――けれど、





「…ケー…ス、ケ…っ」




戸惑いながらも、甘く艶やかな声で途切れ途切れに呼ばれた名前が、まるで特別なものであるかのように、聞こえたものだから。




「――もっかい」




その甘やかさに浸っていたくて、何度も繰り返し木佐に名前を呼ぶよう要求した。
呼ばれる度、心がじわり温かくなり、愛おしさが増してゆく。
たかが、名前。
どう呼ばれようと、それで良いと思っていた、――それなのに。




「…っ、…ケースケっ!!」

「…よく出来ました」




こいつにだけは。
この相手だけには、行為の間だけでも名前を呼ばれたいと、朝井はらしくもなく、まるで恋愛をしているかのような甘やかなことを思った。






2011.09.01

小ネタ集でした。

「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -