その夜は、雨続きだったここ数日を鮮やかに翻したかのような晴れ間を見せた日で、立ち並ぶ高層ビルの隙間から、珍しく雲ひとつ無い綺麗な星空が覗いていた。
都会ゆえにあまり多くの星は見られないが、それでも幾つか浮かぶ星は、小さなキャンバスの中、懸命に光を放っている。
そんな様子を何とは無しに見つめながら歩いていると、暑くも無ければ寒くも無い気温の中、涼やかな風が肌を柔らかく撫でていった。
それに心地好さを感じ、思わず目を閉じてスゥ…と息を吸い込めば、空気が体内を巡り巡って、身体ごと心を癒していく気がした。




(――あぁ。やっぱ、鬱屈した気分を取り払うべく、散歩がてら、普段はしない寄り道をしたのは正解だった)




少しずつ気分が浮上するのを感じつつ、朝井はその形の良い薄い唇を、ひそり笑みの形へと緩ませた。
大通りから一本、二本裏手に入った先のこの路地裏は時折大通りの喧騒が届くのみで、実に閑散としている。
まるで外界から隔離されたかのようなその静けさは心を酷く落ち着かせ、ささくれ立っていた朝井の感情をいとも鮮やかに解していった。
思えば、ここ最近、いつになく苛立つことが多かった。
それは連日降り続く雨に対してだけでなく、自分の内から沸き上がる欲が原因だったように思う。
一ヶ月前、付き合っていた女と突然別れた。別れを告げたのは他でも無い自分だ。
とは言え、そもそもあまり付き合っているという感覚は無かった。
ふたりの関係を簡潔に表現するならば、身体だけの関係、といった方が随分と適切に違いない。
相手に対して特に恋愛感情はなく、ただ沸き上がる欲さえ満たされればそれで良い、――常にそういった思考しか朝井には無かったのだ。
故に、来る者拒まずで相手を受け入れ、付き合うことになるといつも、注がれた分と同量もしくはそれ以上に愛情を求められることが酷く鬱陶しく感じてやまなかった。
そうしていつしか付き合うという行為自体が面倒になり、結果、縁を切ることに決めたのだ。
けれど、そんな朝井の心情とは裏腹に身体は実に正直なもので、日々欲求を募らせ膨らませるばかりだった。
面倒だから縁を切ったにも関わらず、身体は貪欲にも内から込み上げる肉体的欲求を満たしてくれる相手を求めている。
――浅ましいもんだな。
朝井はそう自嘲しながら、なるべく欲求に気付かない振りをし、そのぶん思考を仕事一色に染め上げることで騙し騙し過ごしてきた。
しかし、ここ数日、酷く苛立ちが込み上げるようになった。
それは、連日降り続く雨が閉塞感、鬱屈した気分を生み出していることにも起因しているのかもしれないが、何より、欲を押し込めることにそろそろ限界を感じていたのだろう。
幾ら日を重ねても一向に欲が満たされず、いつしかそれが渇望から苛立ちへと変化していったのだと思う。
とは言え、今更適当に相手を作る気にもなれず、朝井はせめてもの気分転換にと、普段なら通らない道へと歩みを進め、見慣れない風景の中、遠回りをして帰宅することに決めたのは、仕事終わり、帰り際のこと。
そうして、今。
思っていた以上に随分と心が解れ、穏やかさを取り戻しつつあった朝井の耳に、不意に、閑散としている路地裏の先から誰かの言い争うような声が聞こえた。




(――せっかく、久しぶりに気分が浮上しかけていたというのに)




思わずひとつ溜息を吐いて、朝井は声のする方へ、ついと視線を遣った。
すると、視線の先にいたのは、まだ学生とおぼしき少年と、仕事帰りなのだろうキッチリとスーツを着こなした朝井と同じ年代の男だった。
男は嫌がる少年の腕を力任せに掴み、無理矢理自身の方へと引き寄せている。
――…喧嘩、じゃねぇよな。
その様は男が少年に必死に縋っているようで、喧嘩というよりむしろ、痴情の縺れのようなそれに見える。
なんて、そんな考えが脳裏を過ぎったことに朝井は思わず苦笑を滲ませた。




(まさか、そんな筈はねーよな。第一、男同士でそんなもん、)




有り得ないとばかりに自身の考えをバッサリ切り捨て、面倒事は御免だと踵を返そうとした、その瞬間、ふと件の少年と目が合った。
暗がりだった為、今まで気付かなかったが、電灯の下、微かな光に照らされたその姿は何とも愛らしく、朝井を見つめる目はパッチリと大きく綺麗な黒瞳をしていた。
その目に吸い込まれそうだ、と思ったのは何故だろうか。
理由は分からないまま、けれど傍観者よろしく事の顛末を黙って見ている気にはついぞなれずに、朝井は踵を返そうとした足を止め、ツカツカと足音を立ててふたりへと歩みを寄せた。




「――おい」




男に掛けた声が思いがけず低く険しいものであったことに、朝井は内心酷く驚きながら、一切それを顔に出さず、少年の華奢な腕を掴んでいる男に冷ややかな眼差しを向ける。




「…あんた、何してんの」

「テメェには関係ねーだろ!!」




それでなくとも少年に抵抗される中、突如乱入してきた朝井から自分を咎める言葉を掛けられたことで、男は更に苛立ちを募らせたのだろう。
荒々しく朝井にそう言い放ったかと思うと、男は感情のまま、少年を掴んでいる腕に力を込めた。
途端、華奢な腕に痛みを感じて少年が小さく悲鳴を上げる。
そのか細い声が朝井の耳に届くと同時、ギリギリまで抱いていた、何とか穏便に済ませられないかとの考えが見事に露となって消えた。
そうして代わりに沸き起こるのは、やんちゃだった学生時代からしばらく鳴りを潜めていた筈の物騒な感情。
――素直に手を離してりゃ、見逃してやったのに。
あー、今日は眼鏡掛けてなくて良かった。うっかり割れでもしたら堪んねぇからな。
今にも感情が爆発しそうな男を前に朝井はいとも冷静に思考を巡らせ、その締め括りに口元に浮かべたのは、男を嘲るような冷笑だった。




「…関係??あるに決まってんだろうが」

「――何ィ!?」

「人のモンに手ぇ出すんじゃねぇよ」




そう言って男を挑発するかの如く朝井が少年の円やかな額に唇を寄せれば、男は目を大きく見開き驚いた表情を見せた。
まさか突如現れた朝井にそんなことを言われ、されるとは思ってもみなかったのだろう。
少年には自分以外に相手がおり、しかもその相手が少年を自分のものだと主張している、だなんて――これ程、男の神経を逆撫でし、プライドを傷付ける言葉は、きっと他には無い。
そして更に男を追い詰めるべく、そのまま薄い唇を少年の首筋へと滑らせようとしたところで、男はもはや苛立ち、激情を隠そうとはしないまま、朝井を少年から引きはがし、悔し紛れにペラペラと饒舌に彼の内情を語り出した。




「――ハッ!!どうせあんたも顔が良いからこいつに遊ばれてるだけなんだよ。
こいつは見てくれさえ良けりゃ、誰とでも寝るような奴だからな!!」




(…見てくれが良けりゃ誰とでも寝る、ねぇ)




もしそれが本当だったら、そりゃあ大したもんだ。
なんて思いながら興味本位でチラリと少年を見遣ると、少年は唇を引き結んで気まずげにそっと目を伏せていた。
そうして朝井は、それがあながち間違いでは無いことを知る。
しかし、それで朝井が見せたのは、――ふぅん、という何とも薄い反応だった。
男はきっとそれを告げることで朝井に少年への嫌悪感を抱かせようとしているのだろうが、残念なことに男の期待する結果が訪れることは無い。
むしろ、朝井とて少年と似たようなものなのだ。
別段、見てくれを意識したことは無いにせよ、常に朝井に言い寄ってくる女は自分に自信のある女ばかりであったし、来る者拒まずで彼女らと付き合っては肌を合わせてきたのだから、結果として見てくれの良い女とばかり寝てきたことになる。
だから少年が見てくれで相手を選んでいようが、朝井にとってはそれがどうした、という話だ。
ともあれ、見てくれの良さを強調するのなら、男を挑発するのはたやすいことだ。
なんせ朝井も、性格はさておき見てくれだけは良いと言われてきたのだ。
風にサラリと靡きながらもしっとりとした艶を帯びる亜麻色の髪、心の深淵までも見通すような深い紫紺の瞳、女はいつもそれらを『綺麗』だと手放しで褒め讃えた。
――ならば、それを使わない手は無いだろう??
内心ニヤリと笑みを浮かべながら朝井は誰にともなく呟き、そして。女に持て囃されてきた女好きのする顔を男に向け、嘲り混じりに綺麗に笑ってみせた。




「――ま、例えそうだったとしても。
俺さぁ、少なくとも、あんたよりイケてるし、そりゃあんたよりは俺を選ぶと思わねぇ??」

「……っテメェ!!!」




目論見通り、単純にも朝井のそれとすぐ分かる挑発に乗った男は、少年を掴んでいた腕を離し、そのまま怒りに任せて拳を繰り出した。
捻りも何も無い、勢いと持ち前の腕っ節に頼ったストレート。
朝井は見た目スラリとした体躯で筋肉質でもない為、一撃で簡単に吹っ飛ぶとでも考えているのだろう、拳を繰り出す男の顔には既に勝ち誇ったような笑みが浮かんでいる。
しかし、男の予想に反してその拳は朝井に届くことなく不発に終わった。
寸前で、朝井に手首を強く握り締められ、それ以上踏み込むことが出来なかったのだ。
男はただただ驚愕し、必死で手首を掴む朝井の腕を引きはがそうとするが、びくともせず。
この細い腕のどこにそんな力があるのかと言わんばかりに、その顔にありありと悔しさを滲ませ、苛立ちを吐き出す代わりにひとつ舌打ちをした。
そんな男の様子を見ながら、朝井はゆるりと唇の端を攣り上げる。




「――残念でした。こう見え、喧嘩には負けたことねーんだわ。
…さて、このままやっても負けるだけだと思うけど、どうする??
負けて警察に突き出されるか、大人しく立ち去るか、――あんた次第なんだけど」




表面上は柔らかな笑みを浮かべながら、その眼差し、声は思わず背筋が凍る程、冷ややかだ。
事実、男の手首を掴み上げている腕には更に力が込められ、このまま捻られようものなら一溜まりも無い。
――敵わない。
それが解っているからこそ、男はどうすることも出来ず、




「……クソッ!!」




そう苦々しく一言呟き、楽しげに選択肢を突き付ける朝井に対して、…後者だ、と言外に大人しく立ち去ることを告げた。
それを聞き留め、朝井が男の耳元で次は無い旨をやはり底冷えのする声で囁き、手を離すと、男はやり切れない悔しさをぶつけるかの如く道端に置かれた物々に当たり散らしながら、その場を立ち去った。




――そうして、ようやく場が収まったことで朝井は安堵を交えた溜息を吐き、そのままクルリと少年の方へと向き直った。
しかし、途中から呆然と朝井と男のやり取りを見つめていた彼はまだ少しぼんやりとしていて、朝井が声を掛けると、どこかへ追いやられていた意識が戻ってきたらしく、ハッと気付いたように慌てて謝礼の言葉を口にした。




「―――さて、と。大丈夫か??」

「……あの、ありがとうございます」

「どういたしまして。
つーか、一体何なの、アレ」

「……それは、」




尋ねた途端、少年は言葉を濁し、目をキョロキョロと忙しなくさ迷わせる。
少年のそのさまは、朝井に『言いたくない』と全身で訴えているものであったが、自ら介入したとは言え、一度関わった以上、仔細が気になってしまうのは仕方ない。
ゆえに、男が放った言葉を記憶の中から拾い上げ、軽く突き付ければ、少年の顔色がサッと筆で色を掃いたように変化した。




「どうも、痴情の縺れみたいに聞こえたんだけど。見てくれが良けりゃ誰とでも寝る、だっけ」

「―――っ!!!」

「…ま、立ち話もなんだし、どっか店にでも入らねぇ??
晩メシまだだから腹減ってんだわ」

「―――え、はぁ??ちょ、何で、」

「これでも一応、身体を張ってお前を助けたんだ。
全部は無理でも、ちょっとくらい何であいつに追われてたのか、話を聞く権利はあると思わねぇ??」

「〜〜〜〜っ!!!」




幾ら拒んでも折れないどころか、助けたのだから理由くらい聞かせろと詰め寄る朝井の強引さに、少年は思わず表情を歪め、大きな溜息を吐いた。
それはきっと幾ら言っても繕っても朝井は聞き入れやしないと悟っての、諦めのものだったのだろう。
次いで紡がれた言葉は、そんな相手に繕いは不必要と判断したのか、すっかり砕けたそれとなっていた。




「……そんなの、いちいち聞きたいなんて。あんな状況でわざわざ俺を助けたことといい、あんたって、ほんと、……ヘン」




――よく言われるんじゃないの。
砕けた口調になると同時、ずっと張り詰めていた気が緩んだのか、何とも無邪気な顔を見せ、小さく声を立てて笑う少年のその姿は、外見通りに愛らしいもので。
知らずと朝井の表情も、少年につられるよう柔らかなそれへと変わっていった。




「―――バァカ。んなの、初めて言われたっての」




柔らかく目を細め、緩やかに弧を描く唇が紡ぐ表情は、先程までずっと朝井が見せていたものとはまるで違う、心からの笑顔。
そんならしくない表情を他ならぬ自分が浮かべていると、朝井は近くの店舗のガラスに映る自分の姿を通して初めて知った。




(――あぁ、何か随分と久しぶりに笑ったような気がする)




愛想笑いでは無い、皮肉混じりでも無い、純粋な笑顔を浮かべるのはもう、いつ振りのことだろうか。
長い付き合いである柳瀬ですら、先日会ったとき、「…お前、笑わなくなったな」とか言っていたというのに。
それをまさか、出逢ってからまだ10分と満たない相手に向けるなんて、一体どういう風の吹き回しなんだろう。
知らず浮かぶ慣れない笑顔に、違和を感じつつも、それを引き出されたことを少しも嫌だと思わない自身の心に驚きを隠せないまま、朝井もまた、声を立てて笑った。





2011.08.19

ふたりの出会い。
続きます。

第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
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