褐色の君
季節は夏。この世界は梅雨に入ったらしく、じめじめとした日々が続いている。することがなくてしとしと降り続く雨をぼうっと眺めていると、いきなり部屋のドアがばっと開いた。そして何やら日本語かなにか分からない言葉で叫ばれたのがつい先程。逃げ出そうと部屋の外に出るも、追いかけられて必死で逃げているところなのだ。頭にはじっとり汗が浮かんでいる。
「待て!」
「ひゃあああああああああっ」
こまわりの効く体を活かしてちょろちょろと逃げ回る。しかし子供の足では早く走る事が出来ず背中には一瞬手の感触。咄嗟に右に避けギリギリで避けられたが、あともう少しで掴まれそうだ。決死の思いで走っていると、目の前によく見覚えのある顔が。受け止めてくれると信じて思いっきりダイブする。
「つきしまさあああああああああああ」
「うわっなんだっ!?って鯉登少尉!何しているんですか貴方は!」
「おお月島ァ!!!そいつをこっちに渡せ」
「は?伊織に何か用ですか」
鯉登さんは鼻息荒く私の方をじっと見ている。
「伊織と言うのか…なるほど。早く渡せ月島」
「何をするつもりなんですか…こんな小さい子供を追いかけて。追いかけっこがしたいなら外でも走ってきて下さい」
「っ、私を馬鹿にしているのか月島ァ!!!私は走りたくてこんなことしている訳では無い。そいつに用があるのだ」
びしっと指をさされて少しむっとなる。さされた指をぎゅっと持つと反対方向に折り曲げてやった。
「ぬわっ、なな何をするんだっ。そっちには指は曲がらないぞ!」
この人ちょっとお馬鹿さんなんじゃないのか。
「ほら、貴方がそんなだから伊織が警戒してますよ」
「…そうか、怖がらせてしまったのか。急に追いかけて済まなかったな」
頭をぽんぽんと撫でられる。そして鋭い眼光で見据えられた。
「貴様、鶴見中尉とはどのような関係なのだ」
「…へ?」
予想外の質問に一瞬頭がフリーズする。そういえば、私は何故ここに置いてもらっているのだろうか。言われてみれば、はっきりとは説明を受けたことが無い。鶴見さんに聞いてみても「そんなことは気にせず、勉強に励みなさい」との一点張り。考え込んでしまった私を見た月島さんは、代わりに口を開いた。
「伊織は…中尉の親戚です」
「「えっ」」
予想外の言葉に絶句する。鶴見さんの許可もなく、そんな事言ってしまっていいのだろうか。
「それは本当か?まあ確かにその年にしてはしっかりと話す子供だな。鶴見中尉に似て賢いのだろう。きっとそうだな」
鯉登さんはとても納得したように首を振ると、今までの執着はどこへいったのやら、さっさとどこかへ行ってしまった。それを見た月島さんは長い長いため息をこぼす。
「伊織、災難だったな」
「もうにどとあいたくないです」
「…そう言わんでやってくれ。あの人は私の上司だからまた会う機会もあるだろう。少し突っ走る所はあるが、悪気はないんだ」
そう言い残すと苦笑しながら月島さんは去っていった。
取り敢えず鶴見さんの傍にいるのが一番安全圏だろう。この間もうさぎみたいな名前の人に鶴見さん絡みで追いかけられた所なのに、立て続けに同じような事が起こるなんて、鶴見さんの人望に少し恐ろしいものを感じる。よし、取り敢えず帰ろう、そう思った時だった。
「おい、小娘」
「えっ、むぐっ」
突然私から死角だった場所から先程の鯉登さんが現れ私を引っ張った。そして口元を塞がれる。
「んんんんん!!!」
「静かにしろ!少し用を思い出したのだ」
そしてゆっくり口元から手を離すと「騒ぐなよ」と一言。誘拐犯かな。
「伊織、と言ったな。髪が長くて邪魔だろう。私が結ってやる」
いつの間にか鯉登さんの手には綺麗な簪が握られていた。
「そして今から鶴見中尉の元へ行き、この簪を鯉登少尉に頂きました、というのだ。簡単だろう」
そう言うと、問答無用で私の髪をまとめあげてしまった。空いた首元がひんやりして気持ちがいい。
「すずしい…」
「そうだろう。今日からずっとつけておけ」
「でも、わたしやりかたわからないです」
「じゃあつきしまに「むりだとおもいます」」
「…確かに。じゃあ私が出向くから、貴様は結いやすいように髪の毛をといておけ」
そう言い残すと颯爽と消えてしまった。何故だかとっても嬉しそうだった。何が何だか分からないまま言われた通りに鶴見さんの元へ向かうと、先程別れた月島さんもいる。
「おお、伊織君。先程は大変だったそうじゃないか。おや?その髪型はどうしたんだ」
「こいとさんが、かんざしくれました」
私の言葉に月島さんの両目が飛び出しそうになる。
「伊織…何か言われたか」
「え、えっと、こいとさんにかんざしをいただいたことを、つるみさんに、つたえろと…」
月島さん眉間にシワを寄せるとずかずか部屋を出ていってしまった。首を傾げていると、急に括っていたはずの髪の毛がするっと肩に落ちる。
「伊織君にはこの簪はまだ早いだろう。私が預かっておこう」
「…はあ、おねがいします」
振りしきる雨の音の中から、微かに月島さんの怒声が聞こえた気がした。