「…えっと、ちょっといいですか?」
「はい、何で御座いましょうか。」
「刀剣女士、って一体……。」
他にも色々と聞きたいことはある。でもこの狐の縫いぐるみ、何となく怖いんだよね。有無を言わさないと言うか。さっきの会話から察するに、私はこの可笑しな世界から抜け出すことは出来ないのだろう。普段から切り替えには定評があったが、まさかこんなことで役に立つとは。取り合えずは狐のいう通りにしておけばいいのだろう。勿論帰ることは諦めてはいないけど、これを言ったところで変わらないことは何となく想像がついていた。
「簡単に説明させていただきますと、刀に宿り、主に尽くす。そして唯一歴史修正主義者に立ち向かうことの出来る存在です。付喪神と言って、神の一種でもあります。」
「神……。わ、私、神様になったんですか。」
全然実感が湧かない上に、私なんかが神様になっていいもんだろうかと思う。あれ、神様ってこんなに簡単になれるんだろうか。そしてこの狐は、普通刀剣女士は存在せず、刀剣男士しか確認されていないことも教えてくれた。
「そして、此処からが本題に御座います。」
「……は、はい。何でしょうか…?」
「あなた様は、審神者様の真名をご存知で御座いますか?」
そう尋ねられたとたんに、私が思ったのは当たり前じゃないかという考えで、同時に何故そんなことを聞くのかとも思う。まあ何かの確認か。私は少し考えて、隣の席の彼の名前を思い出そうとした。
そう、思い出そうとしたのだ。今まで忘れたことのない名前を、必死に脳内を探り、導きだそうとした。だが、結果は見付からなかった。それどころか、私は自分の名前しか覚えていなかったのだ。家族はいた。これは間違いないのだが、母や父の名前が全く思い出せない。ついでに言うと顔も思い出せない。毎日話していたであろう友達、そして学校の場所や名前も分からなかった。
「……分かりません…。」
そう答えたときの私の顔は酷く歪んでいただろう。何も思い出せないなんて、それじゃあまるで今までの人生を丸ごと失ったようなものだ。朧気に頭に残っているのは、私がただの人間だったことと、隣に彼がいたこと、そして私にも帰るべき家があったことくらいだった。それ以外はまるで無かったかのように抜け落ちて、思い出せる兆しすら見付からない。私はどうしてしまったのだろうか。
「そうですか。ならば良いのです。」
「…は……?」
「審神者は、刀剣達に真名を教えてはならぬという決まりなのです。もし破れば、審神者は拘束され、記憶を取り上げられた後に処分されます。」
「……っ。」
ぎらりと目を光らせるようにこちらを見る狐に、私の肌が粟立った。つまり、私は彼の真名を思い出してはいけないということか。審神者が彼で、私がその刀剣達に当てはまる。私はかなりの爆弾を背負いながらこの場所で生活していかなければならなくなったらしい。無意識にぶるりと身を震わせた。
「それではこの場所…、本丸やこの世界の基本的な事について説明させていただきますので、あなた様はどうか他の者達に異世界の者だと気付かれないよう精進してくださいませ。」
「ま、まって!待ってください!…そもそも、私何で此処に来てしまったんですか?」
私が一番疑問に思っていたことを尋ねれば、声色一つ変えずにこの狐はとんでもないことを言った。
「存じ上げておりません。」
「…………はい?」
「何故なのかなど、私どもの方が聞きたいので御座います。しかしあなた様も知られないご様子。原因を探るのはまた後日でよいでしょう。」
私はこの世界について何も知らない。付け加えると、前の世界の事も、今の私である『狐ヶ崎為次』のことも何一つ知らない。そんな私がこの不思議で可笑しな世界で生活し、生きていけるのだろうかと不安に押し潰されそうになっていることなど、目の前の狐は想像出来ないのだろうか。
知らないなんて簡単に片付けて、審神者が処分されるのを防ぐために私を脅す。思い出すなよと。もしこの狐が私の事を知っていたとしても、私の記憶を奪っておくために教えるつもりは無いのだろう。
私は本当に帰れないのだろうか。
この世界は別に嫌いではないし、勿論彼と一緒に過ごせるのならと少し喜ぶ自分もいる。しかし、この狐は好きになれそうにないな。目の前の縫いぐるみを軽く睨みながら、私は苛立ちながらも変わらずに一定の抑揚で話す狐の声を聞いた。