「私は、単なるシェフですよ」
男は名乗る。手の中にある包丁は、それはそれは大きくて、単に料理をするためだけの物には見えない。
もしかすると、それは料理の具材を狩るための物でもあるのだろうか。――想像して、怖くなった。
「もうそろそろ、魔界の食材にも飽きましたね……地上には、どんな食材があるのでしょう?」
「……お言葉ですが、ニスロクさま」
人間界に、マトモな食材は存在しないかと。
俺は進言する。嘘などつかないし、隠し立てをするようなキャラでもないから、当然ニスロクさまは眉をしかめた。
「どういう意味ですか? それは」
「そのままの意味です。多分地上には、ニスロクさまのお気に召すような食材などありませんよ」
そして同時に、俺がここまで噛み付くのも珍しかった。
俺は普段、何事にも無頓着で、自分の頬をナイフがかすったとしても、顔色1つ変えないから。
「……地上に行ったことが?」
「あります、一度。溢れる人間たちの負の感情はとても心地好かったですが、もう二度と行きたいとは思いません」
人間は所詮、非力で無力だ。天使たちに守られなければ、自身の安全の確保さえままならないというのに。
大きな顔をして、地上を占拠している。他の生き物たちを押しのけ、娯楽の道具にしながら。
「ですが、それは貴方の主観でしょう。私は自分の目で見、感じて、触って、匂いを嗅いでみたいのです。新たなレシピが生まれるかもしれません」
それでも、と俺は呟く。
それでも、なのだ。
「……あなたは何を心配しているんですか? レイシ」
「――、」
名前を呼ばれ、頬に触れられ、俺は躊躇ってもいられなくなる。
だが、どうか――言わせないでほしい――伝わってほしくないこともあるのだ、誰の心の中にも。
「今、負の感情が出ていますね、レイシ。何か隠し事でも?」
「……まあ」
負の感情とは、いくら繕っても隠しきれない。滲み出る。
特に、負の感情を好む悪魔や堕天使たちには、解ってしまうものなのだ。
「言ってみなさい」
「嫌です」
「何故」
「言ったって解決にはならないし、その、俺が惨めになるだけです」
「惨め?」
コックは問い返す。
「恥をかく、という意味ですが。……とにかく俺は言いません。それに、ニスロク様も、人間界には行かせませんから」
「……成る程、大体分かりました」
「は?」
今ので? だとしたらすごい人だ。
俺と彼の関係に、その答えを暗示させるようなことは、何一つ示されていない筈なのに。
「あなたは、嫉妬しているんですね」
「……、」
「私が人間界の食材を集めに行く時、自分が置いていかれるのが怖い。そうでしょう?」
「……はい」
俺は、俯いた顔をもう上げられなかった。
――当たりだ。きっと今、俺の顔は真っ赤に染まっているだろうから。
何故それ程までに、解られてしまうのだろう。
「可愛いですね、レイシ。……さあ顔を上げて」
「ニスロク様、」
「いいから」
顎をすくい取られ、嫌でも顔を上げざるを得なくなる。
羞恥心も相まって、俺の頬は、更に赤くなっていたことと思う。
「分かりました。私は、人間界には下りるけれども、必ずあなたの許に戻ってくることを約束します」
「……どうして、」
「コックとしての本分も捨て難いのです。でも、あなたを切り捨てることはもっと出来ない。……解ってくれますね?」
「……はい」
解らざるを得なかった。そんなことを言われれば、頷くよりほかになかった。
彼は満足げに頷き返すと、手を俺の頭の上に置き直し、軽く触れるだけのキスをする。
「ニスロク様……ッ!?」
「これで、少しか機嫌を直してくれましたか?」
直る直らないの問題ではない気がしてきた。頭がくらくらする。
そうか――俺の嫉妬は、大分前からバレていて、きっとニスロク様は楽しんでいたのだ。
悔しいと思う反面、安心もしていた。
「……ニスロク様はいつもそうやって、俺のことを理解している」
「えぇ、そうですね」
「それなら、」
夜には別れを告げ、朝に口づけよう。こんなにも距離が縮まったのなら。
もう一度、今度は俺から縮め直し、受け止められながら囁いた。
「……俺を、一生お側に置いてもらえませんか? ニスロク様」
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無彩色症候群。ニスロク様の敬語が気に食わないけど、シェフだから仕方ないのかなって