長い手紙 彼が遺した物はあまりに少なかった。 俺は漸く、アトリエに入った。 いや、今までにも入った事はあるものの、作品が置かれている場所に入ったのは初めてだ。……俺は、これらが見たかったというのに。 彼が死んでから見られるとは、なんたる皮肉。 けれど本当は、まだ許されていない気がした――俺は3ヶ月もの間彼の傍に居ても、何の才能も開花しなかったのだ。 どんな素晴らしい芸術も、本当に才能の無い者には刺激を与えられはしないのだろう。 彼が遺したもの。 それは膨大な彫刻の数々。 全ては彼の、死別したという妻に向けられているのだろうか。 底知れない温かみが感じられる気がする。 アトリエをゆっくり進むにつれ、作品の雰囲気がだんだんと変わってきているのに気付く。 ――これは、いつ頃の作品だろうか。 平和を愛した彼とは思えぬ作品がある。 唐突に、彼の作品は形を成さなくなっていた。 何が起きたのか、途中まで作っていたのに、投げ捨てられたように床に落ちている物も在る。 それらは全て、柔和な表情の女性に見えた。 ――もしかして、彼は。 考える事が恐ろしく、俺はゆっくりと首を横に振った。 ついに、布を掛けられた彫刻の前に来た。 軽い布は絹だろうか。手触りが良い。 彼が何を思ってこれを掛けたのか、いやそれどころか何を作ったのかさえ、俺は知らない。 その布を取り去るのは少し憚られた。 今まで見てきて、思ったこと――この布を取って良いのは、俺じゃない気がする。 ……どうしてそんな事を思うのか、俺には分からないけれど。 手を握り締めて足元に目を落とした。 「……ん?」 突然目に入った白い紙。驚いて一瞬呼吸を忘れた。 ――ああ、そうか、封筒か。でも何故こんな所に? 彼宛ての手紙が頻繁に来た覚えがないし、見覚えも無いので俺は屈んでそっと拾い上げる。 そして、封筒をひっくり返した瞬間だった。 「……!」 差出人には彼の名。 急いで返してみても、宛先はない。 近くにペンや便箋が落ちていない事から慌てて書いた物ではないだろう。 ……じゃあ何故、宛先は書いていないのだろう? 「出す手紙じゃないってことか……?」 多分。それしか考えられない。 例の、“天国に宛てた手紙”とか――そういう意味だろうか? だとしたら、俺が開けるとまずくはないだろうか。 しかしここでデジャヴ。 「確か前も……俺の鞄の上に……」 宛先の書いていない手紙が置いてあったことがあったよな。 あれは結局俺宛てで、それから先生と仲良くなったんだけど。 「――だとしたら」 これは俺宛てじゃないだろうか。どう考えてもそう考えるのが妥当。 大体先生の近親者は、息子さんしか居ない筈だから。間違って開けても許されたり―― 「……しないか」 流石にそれはないよなぁ。 「ごめんなさい、先生――でも俺は、先生からの手紙を前にして、開けずにはいられないんです」 例えそれが俺宛てじゃなくたって。いや寧ろその辺りを謝罪に含んでいるのだけれど。 妬いちゃうよ。本当に短い間といえどこんなに近くに居たのに。 「読みますからね」 先生、と消え入りそうな声で呟いて、俺は封のされていない手紙を開けた。 先生の半生。 ――彼は、辛かったのだと思う。 手紙には息子さんの事、家族の事、工房の事など。 8枚半にわたって、様々な事が書かれていた。 几帳面な字で綴られる言葉はどうやら俺に向けられているようだった。 ……まぁ、俺の事は書かれてなかったけどね…… 俺宛てだった、というところに満足すべきだろうか。天国じゃなかったな。 ところで、俺は今アトリエに居る。 先生からの手紙では触れられていなかったが、あの作品。 布のかけられた作品がどうにも気になるのだ。 あれは――彼の血縁ではない俺が見るのは、許されないかもしれない。 資格がないかもしれない、それでも。 あれだけ傍に置いといて、今更見せないっていうのは酷くありませんか…… ねぇ、先生? 「もし、これを俺に見られる事を想定してなくても……」 5日前くらいからいきなりアトリエに入れなくなって、出てきて寝室で寝たと思ったら――なんて。 俺、どれだけ悲しんだのか分かってますか? 「ね、見ますからね……多分、あなたの最後の作品でしょう? 先生」 厳かな気持ちになる。震える手で布の末端を掴んだ。 目を閉じ、呼吸を整える。何だろう……すごく緊張する。 俺はこんなにも芸術に敬意を払う人間だったろうか。 「これも、先生のお陰かもしれません」 では、いきます。 息を吸って、手を引いた。 「……!」 そして俺は呼吸を忘れる。 何て美しさ――いや、優しさ。 全てを包み込むような“天使”――慈母の微笑み。 凝視。手から布が滑り落ちた事さえ気付かなかった。 「先生……あなたは……」 やはり俺の勘は間違ってはいなかったのだ。 彼は偉大な芸術家だと思った、その通りに。 「どうして先生は、こんな作品を遺して逝かれたんですか……?」 最期に創って満足したのだろうか。だとしたら俺を苦しめたいのだろう。 最後に……あなたの作品が、どうして最後の作品がこんなに慈愛に満ちているのですか。 俺は……俺は、あなたにいなくなってほしくはなかったのに。 「これじゃあ、まるでっ……この作品の為に……」 感極まって俯いたその瞬間に、目に入った白い手紙。 ――え? 何でここに手紙が―― この間拾った手紙は机の上に置いてきた筈なんだが。 ……ホラーだろうか。 「……なんてな」 そんなわけがないだろうが。あれじゃないというのなら、つまりは別の手紙ということ。 そう、ただそれだけ。 「まぁ、それでも変は変だけどな……」 わざわざ2通に分けなくても。 そう思いながら拾い、躊躇いなく開けるとそこに便箋……はなかった。 代わりに小さなメッセージカードのような物。 「何だぁ……?」 裏返す。そこに記されていたのはたった3行。 読み返して――読み返して、漸く意味が分かってきて、泣きそうになった。 「な――んで、こんな――」 今まで俺は何を言っていたのだろう。 先生を罵倒するような事を、口にしてはいなかっただろうか。 彼は俺を顧みないのだ、とか言って。 ――そんなわけがなかった。 先生は俺を見て下さっていたのだ。 「先生……俺の名前、覚えてないと思ってたのに……」 気付いたら涙が止まらない。……もう止める気もなかった。 これは贖罪か、悲哀か、はたまたそれとも。 俺はメッセージカードを抱きしめ“天使の彫像”の前で泣き崩れた。 (愛しい君よ) (幸せにしてやりたかった) (――レイシ) ← |