工房の住人![]() 随分長い間、共に住んだような気がする。 勿論それは俺の気のせいであって、その過程に色々な事があったものの、基本的に彼から俺の方に干渉してくる事はなかった。 「先生、食事はここに置いておきますんで、よかったら召し上がって下さい」 彼の居る場所まで聞こえただろうか。 それとももうこんな事は日常茶飯事なので、慣れてしまっただろうか。 作業場に入れない俺は、こうして扉の外から呼び掛けるしかない。 「……買い物、行かなきゃ」 1枚の木の扉が隔てる。そんな声さえ多分届かない。 でも、高い壁、深い溝に阻まれている気がする。 俺は、先生の作品をもっと見たいだけだ。 ただそれだけなのに。 「……はぁ」 溜息は虚空に消える。 頭を冷やしがてら、買い物に行った。 俺は何をしてるんだろう、という自己嫌悪から逃れたい気持ちもあった。 だって、ほら。 俺には帰る場所もないから。 彼の作品を見たい、その一心でここまでやってきた。 これで悔いはないと言って死にたかったけれど、実はまだあの彫刻以外の作品を見た事はない。 俺の当初の目的は果たされていないのだ。 数日前から、彼はアトリエに篭っている。 いつもと同じように食事だけはとり他は一切受け付けない。 ……でもまだ、拒絶されないだけマシなんじゃないかと思う。 人は触れ合ったり、離れたりする事を通して、絆を作り出していくと云うけれど。 「俺は……どうですかね、先生」 もし居なくなった時に、あなたは俺の存在に気付くでしょうか。 足の痛みを覚えつつ、約半日ぶらついた市場を後にする。 必要な物は既に買い揃えていたから、単なる徒労と言える。 ……いや、徒労ですらないのか。 「俺の帰る場所は、此処じゃないから」 そういう問題でもないけど。 「だったら……病院を、俺の家と呼んでいいんだろうか」 もはや私物と化していた個室を引き払ってきて。 有り金を使い果たし、ここまでやってきて。 ――俺は、何がしたかったんだろう。 「彼の作品は素晴らしい……でもそれは、彼の今までの経験から来る美しさだ」 彼は今まで辛い経験をしたのだろう。 悲哀に満ちた彫刻たちは、それでも俺を彼の許へ誘うには十分だった。 「だったら俺は、彼を知りたいのだと……そう思った事はなかったか?」 ――ない? ……本当に? 「本当に? ……彼の傍に居たのはエゴではなく、偽善?」 ……分からない。 そんなこんな自問自答を繰り返す内、いつの間にか家に着いていた。 ほっとして、明かりに向かって急ぐ。 ――しかし玄関の前に、見覚えのある何かが置いてあるのが見えて、身震いする。 「え……?」 それは、俺が病院から出てくる時に、必要最低限の物を詰めたバッグだった。 「な――ん、で?」 ついに愛想を尽かされたのだろうか。それが一番理解できる理由だ。 今まで口をつぐんでいたが、ついに追い出す決意をしたという事か? ……でも、今更。 俺は震える手を伸ばす。 「ん……?」 その時、鞄の上に手紙が置いてあるのに気付いた。 「手紙……先生宛てに……?」 ポストはあるから、と思って裏返してみると――先生の字。 どうやらこれは、俺宛てらしかった。 「何だろう」 直接別れを言えないからって決別の手紙だろうか、と俺は不謹慎な事を思った。 丁寧に封を破る。真新しい糊の匂いがした。 「先生……先生、ご飯できましたよぅ」 「……あぁ」 「早く食べないと冷めちゃいますよ」 ――あの事件から、3日。 俺たちの関係は、今までより仲良くなっていた。 「今行くから先に待っていろ」 「……はい」 俺はアトリエの中に入る事を許されるようになっていた。――勿論、本当に用事がある時だけだが。 それでも線引きが甘くなった事が嬉しくて、料理の腕はきっと上がっただろう。先生に食べていただく為に頑張ったのだ。 「頭も撫でてくれるようになったし……ふふ」 そう。あの手紙は、決して決別の手紙ではなかった。 寧ろ己の身を案じ、何もしてやれないから帰れ、という内容だった。 添えられていたなけなしの金。……俺、帰ろうと思ったらとっくに持ち逃げしてるけど。 そんな言葉を飲み込んで、俺は大喜びでアトリエに駆け込んだのだ。 「嬉しいなぁ……」 先生は俺を追い出す事はしなかった。 それどころか嬉しすぎて泣きじゃくる俺を抱き留め、ぎこちない動作で頭を撫でてくれたのだ。 ――これが嬉しくなくて、何に喜びを覚えるというのだろう。 「はは……これで俺もようやく、工房の住人かな」 先にテーブルに着いて待つ。今日の夕食も自信作だ。 程なくして、聞き慣れた靴音が近付いてきた。 少しずつ近付いていく距離 手を重ね合わせる頃には、それでも… ← |