譲歩

「先生、もう幾日も召し上がっていませんよね。少しで宜しいですから、どうか召し上がって下さい」
「五月蝿い」

 彼に許され、このアトリエに住み着いて1週間半。
 少しではあるが、分かった事が有る。
 ――先生は少しでも、邪魔されるのを嫌がる。
 作品を作る時は誰も作業場に入れないのだ。
 元々俺は勝手に押しかけてきた者だから、余計そうだろう。
 かたく閉ざされた扉から離れ、俺は壁にもたれ溜息をついた。

「ローラン……貴方に妻子が居た事は、分かってる――」

 身体が重い。……嗚呼きっと、俺もそんなに永くはないのだ。
 彼も長生きはしないだろう。同じ末路を辿る者として何となく分かる。

「……頼むよ……」

 ご飯を載せたトレイを部屋の前に滑らせる。
 扉の前からは避けておいたから、きっといつか気が付くだろう――


 ――何に?


 偽善と、自嘲。俺は汚い。
 最初はただ、あんな素晴らしい作品を作るのは誰だろうという、ただの興味だった。
 ――けれど、『彼』を知ってしまった。

「……ローラン……」

 吐き気を堪えながら立ち上がり、覚束ない足取りで洗面所へ向かう。






 失意の内に眠る。俺は勘違いしていただけだったのだと。
 あの雨の日、彼がアトリエに招き入れてくれたのは俺が死にそうだったからで、それ以上の事では、絶対無い。
 現に、治ったならさっさと出ていけと言われているし――金が無いと言ったら、それ以降何も言わなくなったけど。
 それは彼なりの優しさなのかもしれない。分かりづらい程の。
 失意の内に眠る。






「……あれ?」

 夜中、ふと目を覚ましてリビングへ行く。
 不安からだろうか、神経が高ぶっていたのかもしれない。
 リビングへ行く途中の廊下で何気なくトレイに目を遣った。
 え……ご飯が、ない?
 急いで近付いて確認すると、どうやら皿はあるらしい。

「……じゃあ、」

 物盗りならば、皿を盗っていく筈だ。飢えた者だと考えられなくはないが、その可能性は限りなく低いだろう。
 先生は食べないならば、手を付けない筈。
 ここに動物は出入りしないから――中身がなくなっている、という事は。

「……嬉しい……」

 寝ぼけていたにも関わらず、俺は嬉しくなって笑みを零した。
 それでも彼に見られてはいけないと働いた自制は、俺の口に手を当てさせる。
 もう片方の手はにぎりしめた。

「……今日も、頑張ろう」

 現金なのは分かっているが、喜ばずにはいられない。
 俺はまだ、此処に居て良いんだって。
 そう言われた気がした。









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