その薔薇の名前


「まさか……まさか、あなたの前で泣く羽目になるとは思わなかったです」
「……だろうな」

 呆れたように彼も答える。
 俺の涙は5分前くらいに漸く止まっていた、あれから1時間くらい経つ。
 随分迷惑を掛けてしまっただろう事は想像に難くない。

「でも、あなたのお陰で少し楽になりました……有難うございます」
「……そうか」

 ぎこちない感謝の言葉でも、彼には伝わっているようだった。
 しかしそもそも、途中からは理由さえ忘れてしまっていたのだから。
 彼のお陰だろう。
 ここで平和島静雄に会っていればまた展開は違っただろうが、俺はこれでいい。

「……ねぇ」
「ん?」
「京平さんって、あたしの事嫌いじゃなかったですか?」

 前に対峙した時。
 ナイフで切られて、出血多量で死にかけた。

「嫌いって言うか……あー、嫌いじゃないぞ」
「?」
「……何ていうか」

 珍しく、言いづらそうに言いよどむ。

「……嫌われてるみたいだから、その分、嫌い返したというか」

 ――意味が分からなかった。
 いや、単語の意味自体は拾えるのだが、文全体として。

「……それって、どういう意味ですか?」
「――つまり、お前に嫌われてると思ったから、こっちもそれなりの態度取ったんだ。……別に、俺としちゃ、嫌いではなかったんだが」

 ――嫌いというか苦手というか。
 京平さんは言いづらそうに言葉を淀ませながら紡ぐ。

「つまり……あたしが、京平さんの事嫌いだから、京平さんはあたしの事嫌いって言ったんですか?」
「言っては……ねぇと思うけど」
「揚げ足取りです」

 きっと彼を睨む。

「とにかく。京平さんはあたしの事嫌いじゃないんですね?」

 好き、なんて聞かない。
 だって俺を好きになる人なんて。

「好きだ」
「あぁ……って、はぁ!?」

 さらりと事もなげに言ってのける彼。

「いやいやいやあんた何言ってんすか! あたしが誰だか知ってるでしょう! ていうか」
「お前、男だろ?」
「!」
「知ってるよ」

 息が詰まる。――何で。
 どうして、この人は。

「な、何で……知ってるのに、気持ち悪いとか、思わないんですか?」
「何でだよ」
「は?」

 彼は眉をしかめる。

「お前が男だってことに、何で気持ち悪いって思わなきゃいけないんだよ?」

 ……はぁぁ。
 この人、本物の馬鹿だ。

「だって、分かりますよね? あたし……じゃなくて俺は、女装をしてる」
「あぁ」
「普通、一般の人はそんな事なんてしません。あたしは逸脱してるんです」

 多分……それでしか、自分の存在価値を見出だせないから。

「京平さん分かってます? そんな逸脱したあたしを、あなたは――」
「分かってる。分かったから……少し黙れ」
「!」

 押し倒される。
 確かに俺達は、同じソファーに座っていたけれども。
 ――まさか、そんな事。
 危険な予感なんて、しなかったのに。

「な、にして――」
「お前が自分を貶しめたいのはよく分かった。だから……もう何も言うな」

 お前を好きな俺が馬鹿みたいだろ、と変に真面目な顔で。
 真っ直ぐな瞳に貫かれた。

「何言ってるんですか――もう、馬鹿ぁ、」
「あぁ、もう馬鹿でいいよ」

 俺ならなんとでも言ってくれていい。
 だから――自分の事を悪く言うのだけはやめてくれ、なんて。
 自分で自分を傷付けるのだけは止められないから。

 優しい。
 優しすぎて、泣きそうになる。
 俺の唯一絶対の人とは、ベクトルの向きが違い過ぎている。
 ――酷いよ。

 優しすぎるキスを受け入れながら涙を流した。









(――嗚呼)
(それって)

(どこかの幻獣退治の話みたい)



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