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針を止めて私の時間にサヨナラを(柏木)

「おーい、チュベローズを持ってきてくれないか」
「はい、ただ今!」

 夏のある日、少し動くと汗ばむくらいの夕方、人の少ない花屋に客が訪れる。
 オーナーはチュベローズと言った、それは俺の聞き間違いではない筈。
 珍しいな、チュベローズを買っていく人なんてと思いながら、俺は既に用意されてあった花束を手に取った。

「はい、お客様。チュベローズでございます」
「あ、ありがとうございます」

 俺がその人に花束を渡した瞬間、その人はあ、と言った。
 つられて俺もあ、と言う。

「ブルボン香水店の方!」
「澪士様でしたか」
「……知り合いかい?」

 不審そうな表情をするオーナーには俺から説明した。

「えぇ、まぁ、一応。俺、香水とか花に限らないんですけど、匂いを嗅ぐのが好きで。オーダーメイドの香水を作ってもらえると聞いて、ブルボン香水店に行ったことがあるんですよね」
「ほー。で、作ってもらったのか?」
「いいえ」

 くすりと笑い、そのお客さん――柏木さんがその後を引き継ぐ。

「澪士様はとてもくすぐったいのが苦手なようで。匂いを嗅がれたり、触られたりするのが堪えられなかったんですよね?」
「うぅー、ま、そうなんですけど。言わないでくださいよ柏木さん」

 それに、と付け加える。

「ここでは柏木さんがお客さんなんですから、「様」なんてやめてください。……ただでさえも苦手なのに」
「そうでした」

 柏木さんはにっこりと笑って言う。奥に暗い色を湛えてそうな人だと、いつも思う。
 オーナーは俺の隣で笑い声を立てた。

「何だ、そういうことか。でも柏木さん、澪士くんの嗅覚は確かだろう?」
「えぇ、僕も驚きました」
「ちょっと2人して、おだてたって何も出ませんからね」

 そもそも柏木さんに褒められたって何も嬉しくはない。柏木さんは俺以上の嗅覚を持っているみたいだから。

「でも、花の匂いをかぎ分けるなんて、普通はできないことだしな」
「嫌だな、何言ってるんですかオーナー。どの花も個性的な匂いだし、匂いを嗅ぐのは当たり前じゃないですか。見た目は確かに第一印象として記憶されやすいですけど、香りも楽しんでほしいなと俺は思ってるんです」
「あぁ、僕も澪士さんと同じ考えです」

 柏木さんは笑う。……うーん、“さん”っていうのも、ちょっとなあ。
 あまりしっくりはこなかった。でも“様”よりは遥かにいい。

「あの、柏木さん、お願いですから俺が店に行った時も、“様”なんてやめてくださいよ。“さん”の方がいいです」
「ですが、大切なお客様ですから」
「うー、でも結局、この間は既製品買っていっただけですよ」
「そこですか」

 そこじゃないのだろうか。オーダーメイドの香水の方が遥かに値が張るというのに。

「来ていただきましたし、香水もお買い上げになったでしょう」
「はは、まぁ、あれ以来付けてはいないんですけどね」
「それはまた、何故です?」
「毎日花屋ですから、花の香りが消えてしまうのも勿体ないと思って」

 実際、そこまで付けたりはしないのだが、やはり花屋で働く以上、純粋に花の香りを楽しみたい。
 オーナーにもそう言った。そうしたら、その場で採用してくれたのだ。

「そうでしたか。では是非、休日にでも香りを楽しんでください。きっと、気に入って購入された物だと思うので」
「はい。そうします」

 それでは、と言って柏木さんは代金を払い花屋から立ち去った。
 俺はふぅと息をつく。オーナーは笑った。

「緊張したのかい?」
「はい、何故か……何でかわかんないけど、柏木さんの前て、緊張するんですよねー」

 今日はもう帰っていいよ、とのお言葉を賜った俺は、早速裏に戻り着替える。
 お先に、と言って出た俺は、雨を予感した。



 雨の日は、あまり好きではない。雨や湿気が匂いを全て奪ってしまうから。
 そして何故か、雨の日は基本的に体調がおもわしくない。
 俺は、雨の日があまり好きではなかった。



「澪士さん、こんにちは」
「柏木さん!」

 翌日、柏木さんはまた花屋を訪れた。
 声を掛けられるまで気づかなかった。俺は慌てて顔を上げる。

「どうしたんです? 昨日の今日で。また花でもご入り用ですか」
「いや、そういうわけじゃないんですが……近くまで来たので、ちょっと寄っていこうかと思いまして。そういえば、店長さんは?」
「あぁ。ゴルフとか言ってました」
「成る程」

 一言、彼はそれから、俺が手入れしていた花に手を伸ばす。

「その花、もう売れないんですって。勿体ないでしょ?」
「えぇ……でも、何故売れないんです?」
「仕入れてから大分日数が経ったからです」

 特別な日でもなければ、多くの人々に花を買うという習慣はないのだろう。近くに病院があるわけでもない。
 俺は生まれた時から、庭に花があふれていた記憶を持っている。それが幸せなことだと気づいたのは、ごく最近のことだった。
 俺はその度、切なくなる。切り花にされた花が、誰にも引き取られず枯れていく度。

「それで、ね、折角だから俺が引き取ってるんですよ。どうせ売れなくなったものだから、オーナーも、タダで持って行っていいよって言ってくれますし」

 それでもまだ生きているのだ。今は元気がないこの花も、俺の家で甦らせてやることができる。
 そんなわけで、俺の家には沢山の花が溢れている。香水とは違って、いくつ混じっても不快にならない匂いだ。

「……いいですね」
「えっ?」
「僕にも分けてもらえませんか?」
「な、」

 こっちを見て笑ってみせた柏木さんは、確かに綺麗な人だった。
 香水店にマダムばかりやってくる理由も分かる。彼女らは時間と金を持て余しているから。

「む、無理ですよ! これはもう売れなくなったものですし――元気も、ないですから。あ、この花と同じ花なら――」
「そうじゃなくて」

 突然の申し出に慌てる俺を、すぐに落ち着かせるような声音だった。

「元気がなくなった花、澪士さんが引き取って、元気にしてるんでしょう? ただ最期を看取るだけでなく」
「う……まぁ、はい」
「僕は、その花が欲しいんです。澪士さんが甦らせた花が――あ、お金なら勿論払いますよ」
「え、いや、あの、」

 ――口に出ていたのだろうか。甦らせるつもりでいたこと。
 だがそんな記憶もなくて、ただ笑顔を湛えている柏木さんの前で、俺は何度か口をぱくぱくと動かした。

「……あの……お金なんて、要りません」
「そうなんですか?」
「大したことをやってるわけじゃないし、本当なら、人にあげられるようなものでもないので」

 残念そうな柏木さんの表情を見て、でも、とつけ加える。

「――そんなものでも、いいんだったら」

 そんなものじゃないですよ、と柏木さんは言う。
 でも、最期を美しく飾ってあげたいと思ってるだけですから、と答える。

「じゃあ、それでもいいです。僕に分けてください」

 そんな柏木さんの懇願を断れる筈もなく、俺は小さく頷いた。






 数日後、勇気を出してブルボン香水店を訪れると、柏木さんの姿は見当たらなかった。
 もう1人の女性の店員は居たから、多分調香室だろう。誰かのオーダーメイドの香水を作っているのだ。
 別に柏木さんに会うという目的で来たわけではないし、オーダーメイドの予約もしていないから、……俺は香水をひたすら嗅いで回った。店オリジナルの物も、そうでない物も。
 そうして時間が経っていく内に、不意に俺の耳は、女性の嬌声を捉えた。

「……?」

 気のせいだろうか。俺はふと店員の方を窺う。
 しかし店員も同じことを思っていたらしく、俺と真っすぐ目が合った。

「今の、」

 俺が小声で話し掛けようとした瞬間、また同じような声が聞こえた。
 出所は、そう――調香室だ。俺は泣きそうになりながら目を合わせる。
 多分彼女も同じだ。彼女は申し訳なさそうに俯いた。

「……あなたのせいじゃ、ないですよ」
「申し訳ございません、不快な思いをさせてしまって」
「大丈夫です、……本意じゃ、ないんですよね?」

 俺の問いに、彼女は一瞬答えるのを躊躇った。

「……多分」

 俺は失望した。彼女の答えが曖昧だったからではない。
 多分――恐らく、それは彼が断りきれない客だからだ。そういうことを強いられても。
 俺と彼女は暫く黙っていた。その内に、調香室の扉が開いた。

「ふふ、やっぱり柏木さんは天才だわ」
「……ッ!」
「あ、」

 見た。見てしまった。柏木さんに親しげに話し掛ける女の姿を。
 見たくなかった。見たくなかったのに。俺は踵を返し、真っ直ぐに出口へと走り出す。
 ブルボン香水店の扉、古びた鉄の扉を乱暴に開け、花屋へ走った。特に深く考えたわけではなかった。
 驚くオーナーに何も告げず、俺は裏に回ってしゃがみ込んだ。

「お、おい澪士君、どうしたんだい?」
「……お願いです、オーナー。もし、柏木さんが来ても、俺はいないことにしておいてください」

 いいけど、と困惑しているようなオーナーに、俺はこれ以上話す気はなかった。
 ――今日は、雨だ。どうやら天気が崩れ出しているらしい。
 雨なら俺の匂いも消えるだろう。流石に柏木さんでも分からない筈だ。

(……折角、花、持ってきたのに)

 俺が手に持っていたのは、この間柏木さんに頼まれた花だった。
 甦った花。今日か、明日がピークだろう。
 どうしても見てもらいたくて、渡したくて、つい店まで行ってしまったのだ。

(どうして……どうして、俺って馬鹿なんだろう。あそこで逃げたら、まるで、)

 涙が滲む。考えたくもなかった。

(あの人に頼んでおけばよかった。そうしたら、見なくても済んだかもしれないのに)

 俺がこんな風に、逃げ出すところも見せなくて済んだ筈だったのに。
 ――そこまで考えて、俺はフと気付く。

(何で……俺、こんなこと考えてるんだ?)

 そもそも、わざわざ花を渡しに行こうと考えたところからおかしい。今日もまた、同じように花屋で待っていれば、彼が訪れたかもしれないのだ。
 逃げ出すことすらおかしい。例え彼と彼女が肉体関係にあったとしても、俺には全く関係ないのだ。
 ――もしかして、俺は、

「やぁ、柏木さん。今日も来たのか」
「えぇ。でも、申し訳ないんですが、今日は花を買いに来たんじゃないんです」
「じゃあどんな用だい?」

 心臓が止まりそうになる。オーナーがわざと大きな声を出して、こっちに知らせてくれようとしているのだ。
 そういえば裏口がある、と思い出し、逃げようと前屈みに立ち上がった。

「ここに澪士さんが来ましたよね?」
「……いや、澪士君は今日は休みだよ」
「――間違えました。来ました、じゃないですね」

 ここにいますよね、という言葉、濡れた靴音がこっちへ向かってくる。
 強張った身体はもう動いてはくれなかった。涙に変えて、俺は床に座り込む。

「……やっぱり」
「どうして……何で、柏木さん、俺のこと……」
「……今日、あの香水を付けてらっしゃったでしょう」
「!」

 息を呑む。確かにそうだ。

「自分の作った香水くらいわかりますよ」
「……でも……今日は、雨で、匂いなんか、消えてる筈なのに……」
「僕の嗅覚は、並外れてるんです」

 雨の日は確かに匂いが消えてしまいますが、それでも感じ取れないほどじゃないんです。
 そう言われて、俺はそっと匂いを嗅いでみた。
 ――僅かな香水の匂い。花の香りは分からない。
 俺は、同じ高さまでしゃがんだ柏木さんの顔を見ていた。見ていることしかできなかった。

「……何故、僕の顔を見るなり逃げたんですか。僕に会いに来てくれたんじゃなかったんですか?」

 俺は言葉に詰まる。逃げた理由も、彼がそう言う理由も解らなかった。
 ――俺は、会いに行ったのだろうか?

「わ……かんない、です」

 花はとっくに潰れているだろう。汗ばむ手で、力の限りに握り締めていたから。
 折角、捨てられるところを助けたのに――これじゃ全く意味がない。
 今更あげられる筈もなかったし、固く握った手は、何故か俺の意思では開かなかった。

「! それは……」

 呆然としたままの俺に、柏木さんは気づいたようだった。
 そっと俺の手を持ち上げ、開かせる。

「これ……あの時の、花ですね」
「……俺が、潰しちゃったんです」

 柏木さんに触れられた手は、みるみる内に開いていった。最初からそう仕組まれていたかのように。
 握っていたのは茎だった。柏木さんは微笑む。

「潰れてないですよ? ほら、どこも」
「そんな……でも、あんなに握ったのに」
「花は強いですよ。人間に守られる必要などないほどに。……あなたにも、心当たりがあるでしょう」

 柏木さんは俺の手から花を受け取る。そうだ。
 一度枯れかけた花でも、適切な処置を施せば、また咲くことができる。
 俺がやったのは、そういうことではなかったか。

「……逃げちゃって、すみません」
「いいんですよ」

 柏木さんはくすりと笑う。

「どうやら、あなたは花ほど強くはないってことが分かりましたし」
「それ……って、どういう」
「僕のことを好いていてもらったみたいで、嬉しいです」

 ――それって、どういう。
 聞くまでもなかった。
 柏木さんは、俺が口にするより先に、全てに気づいてしまったのだ。

「……違います。そんなつもりじゃなかったんです」
「僕は、そんなことじゃ嫌いにはなりませんよ。僕の方が罪深い人間です」
「……?」
「僕もあなたのことが好きです」

 特に匂いが、と言われて謎だった。

「匂い? 今日は柏木さんの作った香水だし」
「あぁ、いや、そういう意味じゃないんです。何というか、元から持つ匂いです」

 体臭ともまた違うのだろうか。俺は自分の匂いを嗅ごうとしてみる。
 ――ダメだ。自分の匂いなんて、分かる筈がないのに。

「あ、あの。……俺も、柏木さんの匂い、好きです」
「本当ですか? 嬉しいな」

 しどろもどろに告げた言葉は、何倍にもなって返ってきた。

「でしたら是非、僕を、匂い以外の部分でも好きになってほしいですね」















柏木さんが好き。初音ちゃんも。



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